Episode-6,「鳥挽歌と北の王」 まるで鳥籠だと、かつて幼馴染は揶揄まじりに其処を呼んだ。 「シュロ様」 控えめに呼びかけられた声に、彼は微かに睫毛を震わせ、窓硝子に触れていた指を折った。春から夏へと移り変わるこの時分、腕を広げた世界樹の枝のあいまから射し込む陽射しは目にまぶしい。網目状に張り巡らされた樹枝の先には王都ユグドラシルの蒼天が広がり、鳥群れが悠々と翔ける。そのうち、ひときわ輝きを放つ翼を持った鳥に目を奪われていた。 「シュロ様」 前を歩く父や七大老とはもうずいぶん間が開いてしまっている。ひとり立ち止まった北騎士が先ほどより語気を強めて、もう一度彼を呼んだ。北騎士ジーク=ヨーシュはひと月前から彼のそばに仕えている男である。その前は、今代のリシュテンの聖女の守り手をしていたと聞いた。 目を戻すと、鳥の姿はどこにもなかった。落胆の息を吐き出して、彼は足を止めて待っている北騎士のほうへ歩き出す。さっさと追いつきたかったが、足に纏わりつく衣裾のせいで、どこかぎこちない歩き方になってしまう。こと歩くという目的に彼の衣はさっぱりむいていない。光沢のある白い衣は彼の小さな身体では裾を擦ってしまうほど長かったし、袖や襟に銀糸の刺繍が過度につけられているからとても重い。 「失礼を」 自らの裾で躓きそうになった彼を北騎士ジーク=ヨーシュの太い腕が抱き上げた。 ――どうして勝手に手を出すんだろう。じぶんの足で歩きたかったのに。 彼は顔をしかめたが、父がそばにいるので口には出さない。ジークもその点を心得ているらしかった。 「シュロ」 父の声に促され、彼は北騎士の肩に手をついたまま目を上げた。 回廊の奥に、天井の高くなった空間がある。ドーム状に硝子の嵌め込まれたそこは、直に射し込む陽光のせいで明るかった。父のあとに教会の大老たち、今代のリシュテンの聖女、それからすっぽりと黒ローブを頭にかぶった若い男が続く。クロエ、と呼ばれている黒ローブの男は列を割って前へ進み出ると、何がしかを呟いて、石壁に指を触れさせた。男の指先に銀色の光が灯ったのが見えて、「ジーク、ジーク」と彼は北騎士の肩を叩く。 「しーっ、お静かに、シュロ様」 下ろしてほしい、という駄々とジークは誤解したらしい。腕と同様の肉厚な手のひらが伸びて、彼の口を押さえる。直後、するん、と壁が横にずれた。そこで初めてジークや周囲の者たちがどよめきの声を上げたが、彼は消えてしまった銀色の光のほうが不思議で、翠の眸を幾度も瞬かせた。 「しーっ、オシズカニ」 彼にだけ聞こえるように小さな声が囁いた。声のしたほうを探れば、黒ローブの男当人で、目が合うとにやりと口端を上げた。何気なく立てられたクロエの指先で、銀色の光が瞬き、消える。息をのんだ彼に片目を瞑り、クロエは黒ローブを翻して壁が横にずれたことで開いた空間に身を滑り込ませた。先には階段が続いているらしい。クロエに護衛の騎士が続き、七大老、リシュテンの聖女、最後に彼もジークに抱えられてくだっていく。急な勾配の階段は先が見通せないほど暗く、クロエの掲げたカンテラがかろうじて足元を照らすだけだ。樹と水の混じった濃いにおいがする。石壁に這った樹の根に前を歩く大老の影がいびつに落ちるさまが恐ろしく、彼はジークの首に回す腕を強くして目を瞑った。 ふわりと耳を撫ぜたのは、そよ風である。 その風に乗って、歌が。歌が、聞こえた。 「……ああ、」 息を吐き出す片端から、涙が溢れた。狭い階段室をくぐり抜けて現れた部屋では白い光がさんざめき、一羽の鳥が囀っている。唐突に、まるではなから決められていたことを思い出すように、彼には彼女のことがわかった。彼女がずっと、彼からすれば気の遠くなるほどの年月、彼だけを待ち続けて囀ってきたのだということ。その孤独も、絶望も、悲しみも、――こらえきれない喜びも。自分のことのようにわかってしまった。 「あいたかった」 澄んだ声が、白濁しかけた彼の世界を震わせた。 濡れた眸を瞬かせた彼のもとに、一羽の鳥が舞い降りる。銀の眸が幸福そうに笑んでいた。恍惚。歓喜。あるいは、官能。このときの彼女をどう喩えたらよいのか、彼は未だにわからない。蔓草めいた細腕が彼の首を抱き寄せ、頬ずりする。唇が触れた。啄み、歯をなぞり、舌先を深く絡めつける。首に回された手のひらは冷たいのに、舌は焦げ付くように熱い。不思議な体温だった。苦い味が口内に広がる。噛み切れた彼の口端を舐め、濡れた唇を合わせたまま、あいたかった、と鳥は囁いた。 「あいたかった、わたしの王――!」 その囀りは聖音鳥の福音として、ユグドラシル全土に伝えられる。 五百六十八人目の『聖女』シュロ=リシュテンの誕生であった。 「……何故」 頬擦りする少女の肩をつかんで離すと、イジュはあらためてその顔をのぞきこんだ。聖音鳥はあの頃と変わらず、あどけなく銀の眸を瞬かせるばかりだ。 「何故、あなたがここにいるんですか。シュロ」 「なぜ?」 「あそこからどうやって抜け出したんです? 私がここにいることをどうやって知って、」 「なぜ? どうして?」 ――だめだ。この子は本当に、何ひとつ『変わっていない』。 諦めて口を閉ざし、イジュは周囲を見回した。幸いにも、イジュのほかにひとはいない。水差しのそばに漏斗や薬が残されていたが、マルゴット先生は席を外しているらしくドアは閉まっていた。息をつき、足のあたりに纏わりついていたシーツを引き寄せる。 「かぶっていてください」 「かぶる? なぜ?」 「私の言うことを聞いて」 とめどなく問いを繰り返しそうな少女へ、半ば無理やりシーツをかぶせる。イジュの胸くらいの背丈しかない少女は、すっぽりとシーツに覆われた。 いつの間に、背丈もこんなに離れてしまったんだろう。 微かな感傷に駆られたが、かぶりを振ってシーツをのけようとする少女に浸る余裕を奪われ、もう一度「おとなしく」と諌めた。開きっぱなしだった窓を閉じて寝台から降りる。一瞬鋭い立ちくらみがしたものの、こめかみを押さえているうちに徐々におさまっていく。頭痛や嘔吐といった症状もきれいになくなっていた。 「外を見てきます。内側から鍵を閉めて、ひとが呼んでも絶対に開けないように。いいですね、シュロ」 「いいですね?」 「……鍵を閉めるんです。ほらこうやって、内側から」 腰に腕を回してきた聖音鳥に説いて聞かせ、イジュは注意深くドアを開けた。廊下にも中と同様、人気はなかった。錠が落ちたのを確認して、イジュは使用人部屋のある下の階へ向かう。まだ日の高い時間だったが、普段なら慌ただしく階段を行き交う足音や、洗濯籠を抱えて談笑する侍女たちの姿は見当たらない。違和感が首をもたげた。マルゴット先生といい、月白宮の住人はどこへいってしまったのだろう。 「誰か……」 不気味な静寂に気がせいで、知らぬうちに情けない声が漏れている。 「いないんですか。誰か!」 「イジュ?」 知己の少女の声が返り、イジュは手摺から身を乗り出した。 「リラ!」 「あなた、どうして。身体は?」 「もう大丈夫です。それより、何かあったんですか」 「何ってあなた……」 呟きかけ、リラは青白い顔で口に手をあてた。 「まだ、聞かされていないのね?」 「どういう意味です? 目を覚ましたら、マルゴット先生も誰も、中にはいませんでした。あなたしかいないんです、リラ。私はどのくらい眠っていたんですか。その間に何かあったんですか?」 「だけど、イジュ……」 「ルノ様に」 半ばかぶせるように挙げた名に、リラは目に見えて動揺した。 「ルノ様に何か、あったんですか」 リラが身に纏ったドレスが、深緑を基調にした普段の使用人服ではなく、暗い色調に抑えられていることにイジュは気付いていた。まるで喪である。深く考えもせずによぎった感想は、胸中を激しくざわめかせた。「リラ」と華奢な両肩をつかんで揺すると、ごめんなさい、と泣き出しそうな声でリラは首を振った。 「どうして謝るんです」 迂遠な言い回しに苛立って少女の俯いた面をのぞき、声を失する。いつもはふっくらと愛らしいリラの頬は痩せ、目元のあたりには泣き腫らしたあとがあった。 「私にもよく……わからないのよ、イジュ。まだ混乱していて。あとできちんと話をするから、ごめんね。今、イライア様に呼ばれているの。教会の北騎士が押し入ってきたとか、もう訳がわからない。――とにかく、使用人皆が呼ばれているから行くね」 そのときのイジュの表情に気付かないまま、リラが身を翻してしまったのはイジュにとって幸いだった。 「必ず、話すから!」 今一度念を置いて、リラはぱたぱたと階段を駆け下りる。遠のく足音を聞きながら、イジュはよろめいて、壁に背をぶつけた。そのまま座り込みそうになったのを何とか引き立たせ、手摺につかまる。 「シュロ! シュロ、開けて。私です」 極力抑えた声でドア越しに呼びかければ、鍵の降りる音がしてシーツをかぶった少女が顔を出した。 「しゅろ? どうしたの?」 「来てください」 うなずくのも待たず、イジュは少女の手首をつかんで引き出した。先ほどとは反対方向に廊下を歩き出す。聖音鳥の足取りは、慣れないためか今にも転んでしまいそうでおぼつかない。くるんだシーツごと身体を持ち上げ、首に腕を回させた。 北騎士とは、ヨーシュ家のツァリ=ヨーシュを指す。ヨーシュ家は代々、聖女専属の護衛を務める騎士の家柄であり、ツァリは先代ジーク=ヨーシュの息子だった。リラの向かった方向からすると、北騎士は月白宮の正門を通され、急な来客があったときに使用する応接間へ案内されていると考えてよい。そちらを避けて使用人棟の階段をくだると、火の落とされた厨房を抜けて、食物庫のそばの搬入口から外へ出た。ここまでの道程にやはりひとは見当たらない。疑念が再び膨らむが、足を止めている余裕はなかった。ツァリ=ヨーシュは知っている。七大老と先代の聖女、時渡る魔術師以外は知る者のいない、『聖女』の顔をだ。 「しゅろ」 ふと、抱いていた少女が身じろぎをしてイジュの顔をのぞきこんだ。 「ないているの?」 「……いないよ」 呟く声には苦さが混じった。 「なきそうよ」 「きみが心配することじゃない」 少女を抱え直して、搬入に使用している手車に乗せる。音を立てないように命じて一緒に小麦袋を積み、上から麻布をかけた。着の身着のまま出てきてしまったため、ついでに厚手のコートを拝借して、シャツの上から羽織る。 遠目に搬入専用の門が見えてきたところで、門兵の顔ぶれがいつもと違っていることに気付く。月白宮では、カメリオやイジュといった王女つきの使用人はユグドラシルの紋章を縫い付けた深緑の上着を羽織り、ヒヒたち武官は群青の衣を纏う。しかし、遠目に見えるそれらは今多くが銀灰色の上下に取って代わっていた。中にひとり古参の老兵を見つけて、「ロード隊長」と声をかける。 「おお、イジュか」 「これはいったいどういうことです? 近衛は?」 「例の件以来、兵が足りなくなってこのさまよ。外に用か? 今、北騎士に月白宮に残っている連中が皆呼び出されたって聞いたが」 「いいんです。扉、開けられます?」 「構わんが……」 ロードが門のほうを顎でしゃくったので、イジュは「ありがとうございます」と会釈して荷車を押した。例の件。詳しく聞きたかったが、時間が惜しい。 外へ出て、街道にぐるりとめぐらされた高い石壁を背に、ユグドラシルの樹影を見据える。北騎士ツァリ=ヨーシュは、聖音鳥を追って教会からこの月白宮までやって来たにちがいない。聖音鳥は魔術師によって教会の外へ出られないよう術を施されていたはずだが、解けたのか。あるいは魔術師の気が変わったのか。どちらにせよ、北騎士が出てきた以上、イジュの存在はそう時間をかけず、露見する。 露見する。 ぼんやりと、その言葉を噛み締めた。 「しゅろ?」 「ああ、すいません」 袖を引かれて我に返り、荷車から少女を抱え上げる。素直に首に手を回した少女を支え、狭い路地を選んで足早に歩いた。 「しゅろ」 「なんですか?」 「あいたかった。ふふ。うれしい」 微笑み、頬を擦りつける少女をまじまじと見つめる。 「……そうですか」 吐き出した言葉は空虚で、視線をそらすことしかできなかった。 この子は知っているんだろうか。私の裏切りを。 ――きみを一度捨てたんですよ、私は。 きっとわかっていないだけなのだと思うと、余計に苦しくなった。 「しゅろ」 ひゅうい、とそのとき独特の笛が鳴った。 腕の中の少女が煩わしげに首を振る。この笛の音には覚えがあった。普通の人間の耳ではほぼ知覚できないという笛の音は、聖音鳥には警戒音として響くらしい。呼応して囀ろうとした少女の口を塞ぎ、イジュは笛が鳴ったのとは別の方向へ足を返す。けれど道を出ようとしたところで、白い騎士服に身を包んだ男たちが眼前を過ぎ去り、たたらを踏んだ。身をよじる聖音鳥を引き寄せ、店の軒下に逃れた。目を固く瞑る。以前はこれでやり過ごした。今回だって、できるはずだった。 「ここよ」 抱え込んでいたはずの少女が腕から抜け出たことに気付き、イジュは目を開く。まだ少年といってよい若い兵に目を合わせた聖音鳥は、くすくすとわらい、「しゅろなら、ここよ」と言った。 「しゅ、聖音鳥がいたぞぉおおおおお!!!」 別の警笛が鳴り響き、装甲をつけた重い足音がそれに重なる。イジュは信じられない思いで、生成りのシミューズを翻す少女を見つめた。ことりと首を傾げ、「しゅろ、」と彼女はせがむようにイジュの首に腕を伸ばす。 駆けつけた教会兵が周囲を囲んだ。 「おい、おまえ。名を言え。ここで何をしている」 槍をちらつかせて尋ねる少年兵をイジュは見つめた。教会兵の装備こそしているものの、歳はまだ十代前半の少年たちばかりで、いかにも寄せ集めといった印象を受ける。実際、聖音鳥を追う命は受けていても、聖女の話までは聞かされていないのだろう。せいぜい、近くにいた者も一緒に拘束せよ、くらいか。面倒になって視線をそらすと、「答えろ!」と少年兵が槍の刃をさらに近付けたため、代わりに聖音鳥が吼えた。 「うわっ!」 「――やめとけ。ぼさっとしていると、食われるぞ」 背後からかけられた声に、「隊長!」と少年兵が叫び、さっと左右に割れた。現れた顔を一瞥して、イジュは思い切り顔をしかめる。 「いいんだ、『これ』で。捕えろ。ああ、聖音鳥はくっつけたままでいい。むやみに離そうとするな、そのままにしておけば何もしねぇよ」 「……ツァリ」 「久しいな。お迎えにあがりましたよ、聖女様」 空々しい笑みを浮かべ、北騎士ツァリ=ヨーシュは騎士風の礼をしてみせた。舌打ちをする。これみよがしのそれに、ツァリはやれやれとでも言いたげに肩をすくめ、少年兵を促した。 |