――わたしの母と姉は、わたしが生まれてすぐに死んだという。 その夜、聖音鳥は千年ぶりに言祝ぎの歌をうたったというから、皆がわたしにこう言う。あなたは、幸いの子。神にあいされた子ども。けれど、それならどうして、 「どうして、神様はははうえとあねうえをたすけてくださらなかったのだろう」 毎日頁を繰るせいですっかりぼろぼろになってしまった聖書を閉じて、彼はかたわらで銃を解体して中を掃除しているツァリ=ヨーシュに言った。幾人かの側付の女たち。父。せんせい。それから、聖音鳥。彼の世界を構成する人間は、彼の小さな両手で数えられるくらいに少ない。 ツァリ=ヨーシュは他とは少し違っていた。 「それはね、聖女様。あんたの父上が、あんたをいちばんに助けてくださいって助産師に願ったからだよ。神様なんて関係ないよ」 「でも、タニアはははうえとあねうえは神様があいしすぎて連れていっちゃったんだっていってましたよ」 「タニアは馬鹿だもの。あんたも違うって思ったから、俺に聞いたんじゃないの?」 「それは、そうなんですけど」 彼は抱えた膝に顎を載せてこっくりうなずいた。足元に置いた聖書の革製のカバーを指でなぞる。言葉は、聖書を通して知った。文字の書き方や読み方は、せんせいたちから。毎日毎日教わるので、彼は神様のことはたくさん知っているけれど、神様の気持ちはいつもちっともわからない。 「あいたいなぁ……」 足指をぶらぶらとさせながら、呟く。 「ははうえとあねうえに、あいたいなあ……」 リブの剥き出しになった石造りの天井を仰ぐと、「馬鹿じゃねぇの」とツァリが鼻を鳴らしたので、「ばかじゃないです。ツァリのばか」と彼はむっとなって、ツァリの赤毛を引っ張った。 「いてっ、なにすんだ、この馬鹿聖女!」 「ツァリのほうこそ、いつもじゅうばっかりいじって、しごとばかって、タニアがいってましたよ! ばーかばーか、しごとばか! ――いたっ!?」 拳骨が頭に落ち、彼は涙目でツァリを睨め上げる。ツァリは邪魔ぁみろとでも言いたげなにやつき顔だ。歯噛みして、近くにあった聖書を持ち上げる。もちろん、本来とは異なる目的で。 そのとき、外から扉をノックされた。 「へーい」 彼の手から聖書を取り去って机に置き、ツァリが出て行く。赤毛の少年の背中越しに、開いた扉をそっとのぞいた彼は、とたん椅子を跳ね上げた。 「ちちうえ!」 座って待っているのももどかしく、部屋に入ってきた父の胸に飛びつく。抱き締められると、刺繍のせいでざらざらした衣から乳香のかおりが微かにくゆった。リンゼイ=リシュテン。五十の分家を持つリシュテン家の当代であり、教会の老のひとりでもある父からは、礼拝などで使われる淡い乳香のかおりがいつもして、それを胸いっぱいに吸うとうれしさがこみ上げてくる。 「勉強は進んだかな」 「はい。きょうは、せんせいに王国のはじまりのはなしをしてもらったんです」 「ほーう。途中あくびかましてたのは、どこのどいつだっけ」 「ツァリ!」 かぶりを振り上げると、ツァリは舌を出して扉のほうへ向かった。聖女の護衛が仕事のツァリは部屋を出ることはできないが、父が訪ねてきたときはいつも少し離れた場所で銃をいじっていてくれる。多忙である父は月に一度しか彼に会いに来られず、それがツァリなりの気遣いであることは彼にもわかるので、「しごとばーか」とわざとらしくしかめ面をして悪態をついた。 「今朝はどのあたりを読んだ?」 父の手が机に置いてあった聖書を取る。よんでごらん、と促す父の膝に乗って、彼はもうすっかり覚えてしまった一節を口にした。 「“はなようたえ。かぜよいわえ。しゅくふくを世界にしめしたし。この世界樹のもと……”」 「“建国神ユグドラシルは聖音鳥を連れ、この地に降り立った”」 続きは父が継いだ。落ち着いた、父の深い声。滔々と流れる水にも、穏やかに紡がれる子守唄にも似たその声を聞いているのが彼はとびきり好きだった。午後を過ぎた日が伏せがちの父の睫毛を黄金に染める。彼は目を細めて、睫毛の先からこぼれる光の粒を見つめた。 「聖音鳥には今日も会ったのか」 「はい。うたもおしえてくれたんですよ。ええと、こんなかんじ」 記憶をたどって口ずさんでみせると、ツァリ=ヨーシュは肩を震わせ、父は困った風に眉尻を下げた。彼がひどい音痴であることはすでに周知の事実だった。唇を尖らせて、「つきはしろがね、ちはくろがね」と小さくなった声で呟く。すると、それまで微苦笑のかたちに下がっていた父の眉が不意にひそめられた。 「それも、聖音鳥から教わったのか?」 「はい」 「おまえが教えたのではなく?」 「え、ちがいますよ。シュロが、つきはしろがね、ちはくろがねってうたうから、なんのうた?って聞いたら、しゅくふくのうただって教えてくれたんです。あの子、今日はきげんがいいんですよ」 「シュロ。おまえは、聖音鳥と『喋って』いるのか?」 「……ちちうえはしゃべらないんですか?」 シュロはとてもおしゃべりな鳥だ。よくわからない言葉で歌っていることのほうが多いけれど、機嫌がよいと彼に歌を教えてくれるし、ときどき一緒に遊んでくれたりもする。父は、違うのだろうか。首を傾げると、「信じられない」と父は独り言のように呻いた。 「聖音鳥の言葉を聞き取れる『聖女』もいるのか……?」 「ちちうえ?」 「シュロ。聖音鳥はいつおまえに口を利いた?」 「そんなの」 『あいたかった』 『あいたかった、わたしの王――!』 「さいしょから……」 急速に立ち込めた不穏な気配を嗅ぎ取って、彼は父の衣裾をつかむ。何か悪いことを言ってしまったのだろうか。恐る恐るうかがうと、長い沈黙のあと、おもむろにかぶりに手を乗せられた。くしゃりとされた前髪越しに父を仰ぐ。眉尻を下げる、少し困った風な父のいつもの微笑い方だった。 「聖音鳥は、好きか。シュロ」 「すきです。わたしのはじめてのともだちだから。だいすきです」 教会に連れ戻されて、十日が過ぎた。 イジュは長卓に頬杖をつき、窓硝子越しにまたちらつき始めた雪を眺める。少し前に降った雪は解ける間もなく雪嵐に見舞われ根雪となった。午後を過ぎた頃に一度、世話係となった少女が暖炉の薪を足しに来たが、それ以外は誰と喋るわけでもなく、イジュは無為に一日を過ごしている。 あの日、聖音鳥とともに馬車に押し込められたイジュがまず連れて行かれたのは、教会敷地内の北の塔にある一室だった。リシュテンの聖女の存在は、教会でも七大老や数少ない側付以外には固く秘されている。イジュは特にそうだった。十年に及ぶ失踪はもちろん、問題はその性別である。リシュテンの聖女は古からリシュテンの血を引く女たちがつとめてきた。入れ替わりの激しさもあって、千年で聖女の数は五百六十八名に及ぶが、どの時代にあっても男が『聖女』になったという記録は無い。少なくとも公式には無かった。当代の聖女の性別についても当然、限られた者以外には秘匿されている。 軽いノックとともに扉が開く。 ワゴンを押して入ってきた世話係の少女は顔を俯かせたまま、茶器の仕度を始めた。イジュが頼んだわけではなく、ただ定刻になるとこの娘はやってきて、茶の支度をし、晩餐の料理を並べる。たいていはパンと干し肉に葡萄酒程度の質素なものだった。茶は葉の蒸らし方が悪いのか、湯の味しかせず、不味い。自分で淹れたほうがよほどおいしく淹れられるはずの茶を押し付けられるのは苦痛でしかなかった。 湯気を立てるカップから目をそらし、白く曇った窓の外を見つめる。 ――ルノ様はどうしておられるのか。 そればかりが気にかかっていた。 例の件、とロード隊長は呟いた。リラもまた、王宮に異変があったかのような口ぶりをしていた。人気のない廊下、荒れた厨房。思い返すと、不審な点は多い。それに、ルノは。 あらわれないじゃあ、ないですか。 『おまえは私のものなのよ』 そんな王女の傲慢ともとれる物言いを思い出す。所有物を奪われて黙っている王女ではなかろうに、ひと月経っても月白宮から遣いはおろか伝達ひとつ寄越される気配はない。イジュの耳に入る前に止められている可能性も大いにあったが、どうなのだろう。 十年もの間、イジュは周囲を謀った。 正しく言うなら、沈黙した。 おまえは何者なのかと王女が訊けば、答えるつもりではあった。あるじに嘘をつく気はもとよりなかったし、謀ろうとしたところであの蒼の眸に見据えられたら口を割る。ただ、自ら進んで名乗る気にはなれなかった。下手をすれば、連れ戻されるかもしれない。そうならなくとも、自分の出自は込み入っていて、面倒事ばかりを引き連れてくる。 すべてを知って、ルノは怒っただろうか。 「数が、多くありませんか」 対面に置かれたカップを見やり、イジュは眉をひそめる。いつもであるならイジュの前に置かれるだけの茶器は、何故かふたつぶん用意されている。温めたミルクと砂糖を義務のように置き、ポットを片付けている少女はイジュの声に反応こそしたが、何を答えるでもなく礼だけをして下がった。いったいどういう趣向だろう。首を捻って対面のカップを持ち上げていると、再びノックの音がした。どうせ先ほどの娘だろうと、気のない返事を寄越す。 「すまない。大老に声をかけられたものだから、先に茶だけを運ぶよう言って――」 扉の前の来訪者をみとめて、イジュは茶器を置いた。 男のほうも目を瞬かせ、一時沈黙する。 「……驚いたな」 思わずといった風に吐き出された声は苦い。 「聞いてはいたが、やはり不思議な気分だ。まさか、君が私の『妹』だったなんてね。イジュ。それとも、はじめましてと言おうか。シュロ=リシュテン。会えてうれしい」 「私はちっとも、お会いしたくありませんでしたが」 相変わらずだな、と苦笑した男はニヴァナ=リシュテン。 血筋をたどれば、正しくイジュの異母兄である。 |