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03




 ルタ、という名の二ヴァナが常に連れている随身が扉を閉める。
 十をふたつみっつ超えたばかりであろう小柄な少年は、しかし年に似合わぬ隙のない身のこなしで世界樹を切り出して作ったドアの前に立った。

「ひと月か。ここでの生活には慣れたかい?」
「ここが生活をする場所のように見えますか」
「……いや」

 ニヴァナの歩き方に微かに違和を感じて、イジュはよそにやっていた視線を戻した。さりげなく杖を使っているが、右の重心の置き方がおかしい。椅子に腰掛けるときの動きもぎこちなかった。

「足、怪我されているんですか」
「ああ。少しね」

 肩をすくめ、二ヴァナは世話係の娘が用意をしていったカップに口をつける。一口啜って、「不味いな」と顔をしかめた。

「君が淹れたほうがずっといい。自分で給仕もしたほうがいいんじゃないか」
「でしょうね。あなたが相手じゃ、淹れる気にもなりませんけど」
「君に給仕をしてもらうような立場ではもうないさ」

 おまえはもう従者ではないのだと暗に諭された気がして、イジュは口をつぐんだ。長卓に置かれた砂糖を味のしない茶の中に放り込み、乱雑にかき回す。銀の匙が白磁にぶつかり、高い音を立てた。

「腹を立てているのかい」
「不味い茶くらいでは別に」
「ここに連れ戻されたことにさ。戻りたかったわけでは、もちろんないだろう」

 見ているだけで辟易としてきたのか、ほとんど口をつけずに茶器を置き、二ヴァナはイジュに向き直った。その顔が記憶のものよりも憔悴していることに気付いて、少しばかり驚く。目の下には隈が濃くふちどり、顎のあたりにはうっすらと無精ひげが生えている。几帳面なこの男には珍しいことだ。

「気分は悪いですよ。こんな風に軟禁のようにされるのは余計」
「この十年、ほうぼう手を尽くして君を探した。まさか婚約者のもとで働いている男が『妹』だったなんて思いもしなかったが。君は知っていたのか」
「あなたが異母兄だと? 当然ですよ、リシュテン侯」

 答えたとたん、不意にどうでもよい、という気分になった。それまで頑なに守ってきたものたちが急に無意味に転じた気がして、愉快でもないのに、口端に笑みのようなものが載る。

「ついでに、あなたのお父上が何故踊り子にご執心なのかお教えしましょうか。『皇女ジェーダ』を観劇した夜、ルノ様と話してらしたでしょう」


『キミも北方よりの容姿をしているね、イジュ。お母上かお父上は北方出身だったのかい?』

 シャンパンの気泡がグラスの中で弾けて消える。
 真鍮の腕木に蝋燭を灯したシャンデリアの下にバレリーナたちの姿はない。『皇女ジェーダ』の幕間のひとときだった。北方シャルロット出身のバレリーナの話をしていた二ヴァナがイジュへ気まぐれに話を向けた。確か、そのバレリーナの娘がイジュと同じ翠の眸を持っていたのだ。
 侯爵、とかたわらに座していた王女が取り成しに入る。

『お話してませんでしたか、イジュは――』
『ええ』

 ルノの言葉を遮るようにして、気付けば答えていた。ルノはイジュが孤児であることを二ヴァナに説明するつもりだったろうから、イジュはただ口を閉ざして王女の言葉を聞いていればよかったはずだ。それなのに、口を挟んでしまった。言葉を取り上げられたルノはたぶん、驚いたろう。

『私の母は――』

「それは、あなたのお父上が愛した踊り子が私の母だったからですよ」

 芸座に身を置いて各地をめぐっていた母は、やがて王都にのぼって父に見初められたのだと。あのとき語った話は幼い頃、父から聞かされたものだ。王都ではよくある恋愛譚であったから、二ヴァナは疑問にも思わなかったらしい。むしろ、違うところに気を取られたというべきか。
 思い出す台詞があって、イジュは目を細めた。

「あなたの言うところの娼婦、でしょうか」
「……お母上は確か、君を生んですぐに亡くなったと聞いた」

 苦い顔を二ヴァナは取り繕わなかった。

「非礼は詫びよう。父が未だに君のお母上を想っていることは私も知っているさ。――今日ここへ訪れたのはほかでもない、イジュ。君にいくつか確認したいことがあってね。父はどうやら、私たちにもすべてを明かすつもりはないらしいんだ」

 口を湿らすためにか、二ヴァナはすっかり冷めきった茶を含んだ。二ヴァナが訪ねてきた時点で、こういう話は予想していたのでイジュも特段驚きはしない。ただ、どうやら父リンゼイ=リシュテンが今回の件に主体的に関わっているわけではなさそうだということがうっすら察せられただけである。リンゼイは教会側で唯一、イジュがユグド王宮にいることを知っている。リンゼイ自ら命令をしたのなら、聖音鳥を放してその行方を北騎士に追わせるなどというまどろっこしい手立ては使わなかったはずだ。

「まず確認をしておきたいんだが、イジュ。君は男か?」
「は?」
「つまり、その、身体上も?」
「……冗談言っているんですか?」
「失礼。だが、『リシュテンの聖女』は女性しか務められないのが千年続いてきた習わしでね。おそらく君はユグド史上初の男性の『聖女』だ。――二十五年前、父と君の母君との間に生まれた子どもは双子だった。『弟』はすぐに死んだと聞いたが、となれば、死んだのは『姉』のほうだったのか?」
「さぁ。少なくとも私はそう聞きましたけど」

 母はふたりの子どもを産んだ直後に息絶えた。
 力尽きたように死んだと聞く。姉もまた、産声ひとつ上げることなく死んだ。ふたつの屍の上から取り上げられた子どもだけが生き延び、聖音鳥の祝福を受けた。

「もうひとつ確かめておきたい。聖女は一年から二年を目処に必ず交代がなされてきた。およそ七百年前、聖女の発狂死が続いたために当時のリシュテンの当主が制度を整え、以来このことわりは続いてきたと聞いている。これまでの記録と照らし合わせても、君の二十年は異例だ。心当たりはあるか?」
「むしろ、私が教えてほしいくらいですよ。私もずっと、私の後は別の聖女が引き継いだのだと思ってましたから。ただ、私のいた十年、あの子は他の聖女候補を受け付けなかった」
「君を十年前、教会から連れ出したのは……」

 目を瞑る。
 ずっと、それだけがおぼろだった。
 金の眸をした魔術師。
 ルノに拾われたばかりの頃に一度。ハリネズミ祭の騒動でもう一度。それから、教会の鴉片密輸事件。何度も顔は合わせていたのに、思い出すことができなかった。

「エン」

 イジュは言った。
 口にしてみるとそれはしごく、馴染んだ名のように思えた。

「クロエ、キェロ=ツェラ。あるいは、シャルロ=カラマイ。シュロをここに縛り付ける術をかけたのはあのひとです。もう術は、解けてしまったみたいですけれど」

 十年に及ぶ聖音鳥との契約は、自己と他者との境界が曖昧な子どもには大きな負担を強いた。聖音鳥はかなしい、かなしい、とよく啼いている。こいしい、こいしい、とよく啼いている。聖音鳥がかなしいと、イジュもとてもかなしい。聖音鳥が泣き出すと、イジュも涙が溢れて止まらなくなる。以前、マルゴット先生はイジュの手首に残った自傷の痕を指して、おまえは天に絶望したことがあるのかと聞いた。けれど、ちがう。本当はちがうのだ。あの、気がふれんばかりの絶望と嘆きと慟哭は、あの子のもので、イジュのものじゃない。
 
『だから、きみが苦しむ必要はないんだ。シュロ=リシュテン』

 そう言って、暗闇にうずくまるイジュの手を引き上げたのが金の眸の魔術師だった。名を聞いたイジュに、彼は『クロエ』、またの名を『エン』と告げ、あいたかったよ、と額にふわりと額を擦った。
 聖音鳥は契約の目印がある限り、どこにいても聖女を見つけることができる。繋がっている状態なのだと、エンは説明した。だから、イジュは聖音鳥の言葉や感情、苦痛が手に取るようにわかるし、その逆も同じらしい。近頃の原因不明の発熱や頭痛、眩暈といった身体の不調はおそらくすべて聖音鳥に由来している。エンがかけた術が何かのはずみに弱まり、聖音鳥が力ずくで破った。そうたやすく解けるものではないから、過程で聖音鳥は傷を負い、苦しんだろう。イジュはただそれを感じ取っていたに過ぎない。術が解け、聖音鳥が自由になったとたん、不調が消えたのはこのためだ。

「エンの行方をご存知ですか。確かここで神学生をやっていたはずですが」
「わからない。ある日忽然と消えてしまったんだよ。私もほうぼう探させているんだが、足取りがつかめなくてね」
「では、ルノ様は」

 気が付くと、イジュはそのようなことを呟いていた。

「ルノ様は、どうしていらっしゃいますか」
「まさか君は、知らないのか?」

 それまで落ち着き払っていた二ヴァナの顔色が変わる。「どういう意味ですか」とイジュは眉をひそめた。

「やっぱり何かあったんですか。ルノ様に」
「――……行方不明だよ」
「え?」
「もうひと月前になる。体調を崩していた父の見舞いにルノ姫と行った帰り道だ。ヘレヴィンナの森へ差し掛かった場所で、私たちの乗った馬車が野盗に襲われた。とっさに外へ脱出したが、私は足を撃たれ、姫は……。賊ともみあった末、崖下に落ちた。ヘレヴィンナの峡谷だ。すぐに捜索隊が川をさらったが、あれではとても……」

 がちゃん!
 茶器の砕ける音でニヴァナは言葉を止めた。
 
「イジュ」
「嘘です」

 長卓に砂糖とミルクを混ぜた茶色い液体がぶちまけられている。割れた白磁の破片を睨めつけ、イジュは呻いた。

「あなたはなんの……なんの話をされているんですか? ルノさまが行方不明? 詐欺師だって、もっとマシな嘘をつきますよ」
「イジュ」
 
 叩きつけようとしたこぶしをつかんで止められる。二ヴァナの碧眼につかの間、憐憫の色が載った。それが許しがたいことのように思えて、イジュは歯噛みする。

「君がどう思おうと構わない。だが、ルノ姫はここにいない。さらにはスゥラ王までもがハザ公国に向かったまま行方不明の状態だ。議会はこの非常に際し、ウル王子を国王代理に据えるとの結論を出した。シュロ=リシュテン。この場所を一度は出て行った君を我々が呼び戻したのには訳がある。神意を告げる者として今一度ひとびとの前に姿をあらわし、国王代理の承認を行ってほしい」
「意味が、わかりません」

 目の前の情景がひどく現実味を失っていくのを感じていた。
 何故。何が。どうして。
 次々に問いが浮かび上がるが、思考はちりぢりに乱れ、一向に纏まらない。ただ、リラの憔悴しきった表情や、人気のない廊下、もう何日も放置されたような厨房、王兵の減った門がめまぐるしくよぎり、こめかみを鈍く疼かせた。イジュは長卓の端に手をつく。そうしなければ、くずおれてしまいそうだった。

「カメリオ……、カメリオに、会わせてください」
「侍従長は今忙しい。すぐ時間を作れるようには」
「いくらかかってもいいです、会わせてください!」
「わかった。善処しよう」

 そのとき、「侯爵」と席を外していたルタが中へ入ってきた。ふた言三言交わした二ヴァナが「そうか」とうなずき、椅子に立てかけていた杖を取る。

「時間だ。また来よう。カメリオには私から面会を取り計うようにするから、君はさっきの件を考えておくように。シュロ=リシュテン。君はもう、『イジュ』には戻れないんだ」

 軋みを上げて扉が閉じる。
 唇を噛み、イジュは茶器の破片にこぶしを叩きつけた。


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