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04




「国王代理の議決がまとまったようですね、ウル殿下」

 二ヴァナが諸事を片付け、太陽宮へうかがう頃には日はとうに暮れていた。
 国王不在の太陽宮は、大学から半ば強制的に連れ戻された第一王子ウルが現在は使っている。王子がもともと住んでいた明星宮は、長い不在のせいですぐにはあるじを迎えられる状態になかったためだ。急遽、太陽宮の客間が整えられたが、王子自身はそちらには寄り付かず、王国でも一、二を争う蔵書を誇る図書館のほうへ入り浸っていた。紫檀を使用した長卓にはハムを挟んだ食べかけのパン、すっかり冷めてしまったらしい南瓜のスープ、それから長い脚が惜しげもなく投げ出されている。あくびをして足を組み替えたウルは、ニヴァナの呼びかけにも眉ひとつ動かさず頁を繰った。妹姫とはまた趣の異なる、相変わらずの奔放ぶりである。向かいの椅子に杖を立てかけ、二ヴァナは嘆息した。

「持ち帰ってお部屋で読まれればよろしいのに。お風邪を召されますよ」
「アジャンのようなことを言うな、おまえ」

 そこで初めて声が返った。
 アジャン、というのはウルの身の回りの世話をしている護衛兼従者である。ウルと乳兄弟であるというこの男は、ウルが大学に通っている間も片時も離れず護衛に徹していたと聞くが、姿を見たことはない。

「アジャンは?」
「知らん。暇つぶしに来たのなら失せろ。僕は眠いんだ」

 目をこすって、頁をめくる。普通なら本を閉じるところだろうが、この王子に限っては書物への執着が相手との会話を上回るらしい。お話があってきたんですよ、とニヴァナは肩をすくめて椅子を引いた。無論二ヴァナも、冷やかしにわざわざ太陽宮までうかがうほど暇ではない。国王代理の件も議決がまとまったのは今朝方であるから、すでにウルの耳に入っていただろう。
 ユグド王国は古くから世襲による王政を敷いているが、王の権力は北大陸ほど絶対的なものではなく、議会や教会と緩やかな協力関係を築いている。十日前、国王不在の非常に際し、星詠み師―この国では宰相職をそう呼ぶ――レント公が緊急で議会を召集した。スゥラ王にはウル王子以外直系の男子がおらず、適任の親族もいなかったため、目立った反発はなく国王代理はウル王子の方向でまとまり、またハザ公国対策として軍備の見直しがかけられた。リシュテン家もしばらくは王都にとどまり、おもに巡礼街道の警備をすることになっている。
 国王代理の承認は、二週間後。古の掟にのっとり、神意を告げる聖音鳥、そしてその声を唯一聞くことができる聖女シュロ=リシュテンの宣言によってなされることになっている。

「――それで?」

 対面に座ってしばらく待っていると、ようやくウルが口を開いた。

「やっと聞いてくださる気持ちになられましたか」
「おまえがいると、目障りなんだ。さっさと言え」
「はなから手短に済ませるつもりではありましたよ。お聞きしたいのはひとつだけです。イジュが聖女シュロ=リシュテンであることはご存じで?」

 古い書物に落ちた影が揺れる。ランプの照り返しを受け、橙色に染まった指先が音を立てて紙をめくった。

「さぁ……。はじめて聞いたな。そうなのか?」
「演技はあまりうまくないようですね、殿下」

 微苦笑を滲ませると、とたん相手は不機嫌そうな顔になる。

「なら、聞くな。嫌味な奴だな」
「最初は私も驚きましたよ。ルノ姫が拾ってきた子どもが聖女シュロ=リシュテンだったなどなんたる偶然だろうと。ですが思い返せば、不可解な点はいくつもあった」
「たとえば?」
「ここは、ユグド王室です」

 二ヴァナは言った。
 そして、スゥラ王は国の内外に名を馳せる賢王である。王の懐とも呼べるこの場所で、不用意な偶然は早々ありえない。スゥラ王はすべて知った上で、イジュを置いていたのではなかったのか。

「思い出したんですよ。姫が私にあてた手紙に書かれた、イジュを拾った夜のこと。直後に起こった宝石泥棒事件、そして姫はついぞ見ることができなかったと悔しがっていた、黒髪金眸のオルゴール配達人のこと。黒髪金眸の男は無論、クロエ。あなた方の呼ぶところのシャルロ=カラマイ。スゥラ王にオルゴールを渡すために王宮へやってきたと彼は言ったらしいが、おそらく実際は違う。オルゴールはついでで、本当の目的はシュロ=リシュテン、つまりイジュでしょう。クロエという男はね、殿下。ご存じでしょうが、あの姿で千年もの時を渡った、呆れるくらいしたたかで老獪な化け物なんですよ。聖女の誘拐だなんて、大それたことも平然とやってのける。理由はわかりませんが、クロエはその隠し場所に、ここを選んだ。スゥラ王はあのご気性であるし、父はシュロをいたく可愛がっていたから、うなずいたのでしょう。ならば、と思ったのですよ。あなたももしやすべてを教えられていたのではないかと」
「流暢なユグド語。異様に深い神学の知識と、平均以下の常識。極めつけはあの容姿。父上に訊いたら、吐いたさ。ルノは知らないが、カメリオは知っている」
「やはり」
「話はしまいか? リシュテン侯」
 
 ぱん、と本を閉じる音が静まり返った室内に響いた。長卓に積んだ別の書物を取り去るウルの姿は常と変わりなかったが、どこか刺々しい。この短い時間で王子の機嫌が急激に損なわれたらしいと二ヴァナは察した。
 今晩は、ここまでだろう。
 ええ、と息を吐くと、ウルは鷹揚に顎をしゃくった。去れという意味だろう。肩をすくめ、二ヴァナは椅子に立てかけていた杖を引き寄せる。これまでも慣習として杖の携帯はしていたが、実際に身体を支えて歩くのは未だに慣れない。扉の前に立っていたルタがさりげなく寄り添って肩を支えた。

「……クソ腹立つくらいしたたかで老獪で。そのくせ、愚かな男なんだよあれは」
「殿下?」

 尋ね返すが、ウルは手元に目を落としたまま答えない。父と妹を同時に失ったかもしれない王子がいやに平静なのが二ヴァナには不思議であり――、また不気味でもあった。






 信じられない。
 信じられない。
 絶対に、信じられなかった。
 
「聖女様。聖女様。お開けください、聖女様」

 机を立てかけた扉の外からは絶え間なくノックの音が響いている。しかしそちらには一顧だにせず、イジュは開け放った窓から階下を臨んだ。敷地内の建築物の中でも、北の塔は群を抜いて高い。そのまま降りることは不可能であるため、裂いたシーツで作った縄を寝台の脚に結んでいると、ひときわ大きな破壊音がして扉を蹴破られた。

「何をやってるんだよ、聖女様」

 倒れた扉を踏みしだいて入ってきたのは、北騎士ツァリ=ヨーシュである。扉を壊すのに使ったらしい大ぶりのハンマーを担いで、呆れた風にイジュを見下ろす。降りるんですよ、と窓の桟に手をかけ、イジュは言った。

「はぁあ? 死ぬ気かあんた」
「まさか。降りるだけです」
「シーツ繋げて作っただけの紐が大の男を支えられるもんか。ついに頭までいかれたのか」
「ハンガーの針金も使いましたから。もううんざりなんですよ、あなたたちの思惑でこんな場所に閉じ込められるのも、馬鹿げた作り話をされるのも! 私には帰る場所があるんだ!」
「ユグド王宮があんたの帰る場所だって? 馬鹿言うんじゃないよ、聖女様」

 ハンマーを投げられる。ほとんど反射でよけてかわすと、そのわずかな隙をついてツァリが距離を詰め、腕を捻り上げた。かしゃん、と乾いた音が腕を回された背後で鳴る。手首に嵌められたそれを見て、イジュは目を瞠った。手枷だった。囚人に使用するような鉄製の枷で腕を拘束されていた。

「な、にを……するんですか!?」
「関節を外さないでやっただけ感謝しろよ。窓から飛び降りるような馬鹿が」
「それで枷? 騎士の名が聞いて呆れますよ」
「あんたこそいい加減思い知れ。馬鹿な幻想を抱くのはやめろって言ってんだ」

 手枷を寝台の脚に繋ぎ、ツァリは重ったるい息を吐き出した。

「死ぬまで籠の鳥なんだよ、あんたは。自由なんて無い。あんたに自由なんか、無い。夢見るだけ不毛だ。いいか、あんたはこの籠の中で生きて死ぬし、それしかできないんだ。わかったか、シュロ=リシュテン。ごねてないで、さっさと承認でもなんでもしろよ」
「……うるさい。失せろ北騎士」

 言葉に反して語気は弱い。ほとんど呟きといってよかった。
 俯いたイジュをしばらくうかがっていたが、やがてツァリは世話係の娘を呼びつけると窓を閉めるように命じて立ち去った。
 蝋燭がひとつ残された暗闇で、身をよじる。枷と寝台の脚が擦れ合う不快な音が立ったが、外れる気配はなく、手首が痛んだだけだった。
 かつて、本当にまだ年端もいかない頃、この場所を抜け出して父に会いに行こうとしたことがあった。あのとき、ツァリは一緒についてきてくれた。けれど、塔を出ようとしたあたりで見つかって、イジュは部屋に閉じ込められ、ツァリはしばらく姿を見せなくなったあと、顔を腫らして戻ってきた。あの頃、幾度となく考えた。どうしてわたしはツァリや他の子どもたちのように、ちちうえといっしょにいられないんだろう。そとであそぶことができないんだろう。どうしてかくれていなくちゃいけないの。
 
「……うるさい」

 どうしてははうえとあねうえはしんでしまったのか、
 ちちうえはわたしのそばにいてくれないのか、

「うるさい、うるさい」

 そしてゆきつくのだ、だれもほんとうはわたしのことをあいしていないのではないかって。あいされないこども、だれにもあいされないこども、かみさまにしかあいしてもらえないこども、それがわたしなのではないかって、

「うるさい……!!!」

 力任せに枷を叩きつけると、手首が嫌な音を立てた。どこかを傷つけたのか。鈍く疼き始めた手首のせいで身をよじる気力も失い、イジュは立てた膝の上に顔をうずめた。


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