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05




 夢を見ていた。
 誓いの言葉を、と懐かしい声がわたしに告げる。
 目の前に、なめらかな光沢を放つ月白色のドレスに身を包んだ少女が立っていた。自分の腰ほどしかない少女は、けれど背筋を凛と伸ばして、天穹にも似た眼差しを静かにこちらへ向けている。ああ、そうだった、と思い出す。八年前、在りし日の月白宮だった。王女ルノ=コークランのしもべとなることを誓う、生涯一度の式典。
 通常、しもべとなる者たちは、イェン・ラー(すべては神の御心のままに)とあるじに誓う。イジュはジェイス・ラー(我が心のままに)と言った。それがふさわしいように思った。彼女を選んだ。怖いもの知らずで、豪胆で、いつもしゃんと背を張っていて、泣けない、ひとで。誰の前でも、泣けないひとで。本当はとても細やかなのに、そんな自分は押し込めていつも胸を張って立っている。あなたは、この世界の何よりも美しい。





 さぁ、はなようたえ。かぜよいわえ
 このせかいじゅのもと……

 微かな歌声が聞こえた気がして、イジュは目を覚ました。
 木枯らしのせいか、窓の向こうで黒々とした樹影がざわめいている。甲高い悲鳴にも似た風音や、窓にしなった枝がぶつかって立てる、かつ、かつ、といった音に混ざって、やはり歌声がしているようだった。さぁ、はなようたえ。かぜよいわえ。口ずさむと、窓辺に白い影が降り立った。

「シュロ」
「よんだ?」

 あどけなく小首を傾げた少女に、「呼んだ」と顎を引く。まるい銀の眸に喜色がよぎり、聖音鳥はイジュに頬擦りした。いつもであれば、自然と回される腕がないことに気付いたらしい。銀の睫毛がひそりと揺れた。

「うで、どうしたの」
「動けないんですよ。外せますか、これ」

 手首を拘束する鉄枷に聖音鳥が触れたとたん、枷が外れて落ちた。魔術のほどこされた刑具でもなければ、聖音鳥を拘束することはできない。すでに魔術は廃れて久しく、今生きている魔術師たちは古くからの教えを読み継いで、薬草などを処方するくらいが主であるから、金の眸の魔術師くらいしか、聖音鳥を捕まえておくことはできないのだけども。
 不意に、二ヴァナたちは野放しになってしまったこの鳥をどうするつもりなのだろうと思った。イジュがいればよいと思っているのか、鳥自体を異形の獣ほどにしか考えていないのか。
 聖音鳥は、頭が悪い。確かに一羽では、喚くか、騒ぐか、歌うかくらいしかできない。
 イジュは長い時間後ろに回されていたせいで痺れた腕をさすり、右手首を確かめた。触れると、赤く腫れた箇所がちりりと軋んだが、骨が折れているわけではなさそうだ。鍵がかけられたままになっている窓を見つめ、イジュは腰に腕を回してきた聖音鳥を振り返った。

「シュロ。今どうやって中へ入ってきたんです?」
「そんなの、かんたん」

 聖音鳥のましろの手がイジュに触れる。

「ぅわっ!?」

 瞬間、視界いっぱいに星空が広がった。頬に刺すような剥き出しの冷気が吹き付ける。空中に放り出されたことがわかって四肢をばたつかせると、どん!という音とともに花の咲いていない薔薇の茂みに落ちた。

「っつー……」

 派手な音を立てたせいだろう。窓のカーテンが開いて、中にくべられていた暖炉や燭台の明かりが漏れる。顔をしかめながら首をもたげたイジュは、目の前に先ほどまで自分がいたはずの北の塔がそびえているのに気付いて、茂みから身を起こした。薔薇の棘枝が薄いシャツやズボンを擦って、血が滲み出している。しかし、あの高さから本当に落ちていたのなら、こんな怪我では済まないだろう。

「いったい何が……」
「外だ! 侵入者かもしれん!」

 守衛のひとりらしい鋭い声がした。はからずもその声で我に返り、イジュは、うーん、と不思議そうに首を捻っていた聖音鳥の手を引き、落ちていた石を近くの窓に向かって投げる。そして自分はその場から身を翻した。

「このあたりから音がしたと……」
「窓が割れている。中へ入られたかもしれない」

 すぐそばを守衛たちが通り過ぎる。前のときのように出て行かれたら、たまったものではない。イジュは聖音鳥の口を塞いで、あたりをうかがった。遠くで警笛が鳴っている。大学のほうにも伝令がいったのだろう。学内で鴉片の密輸が告発されて以来、教会の警備の量は目に見えて増やされている。イジュの不在はほどなく北騎士に伝わるであろうし、守衛の目をかいくぐってここから抜け出すのは難しい。

「シュロ。さっきと同じことをもう一度できますか」
「もういちど」
「次は……ヘルヴィンナの森へ」

 口にしてみて初めて、自分はそこへ行きたかったのだと気付く。
 ヘルヴィンナの森。二ヴァナが語っていた、ルノが遭難したという峡谷だ。

「ヘルヴィンナ?」
「王都の郊外にある峡谷です。知ってますか」

 聖音鳥は眸を眇めてイジュを見上げたが、小さくうなずくと腕を伸ばした。


 しかし、ヘルヴィンナの森まで一息というわけにはいかなかった。
 聖音鳥の力で教会の敷地外に出ることはできたものの、そこはリィンゼント通りの路地裏で、次に飛んだ場所も、少し離れただけの酒場裏だった。だんだんと移動の距離が短くなっている。うまく飛べない、と聖音鳥はしきりに首を傾げた。魔のことには詳しくないが、たぶんイジュがくっついているせいだろう、とは察しがつく。イジュのほうもまた、座り込んだまましばらく立ち上がれないくらいの疲労を感じていた。ひどく走ったあとのように心臓が激しく打ち鳴り、汗がとめどなく伝う。
 ギブ・アンド・テイクの法則だよ、とエンが笑っていたことを思い出す。
 あれほどの魔術師だって、好きに使える力ではないのだから、イジュであればなおさらだろう。そもそも、今の場合、誰に、何を与えているということになるのだろうと考えたところで爪が剥がれて落ちたので、イジュは吐き出しかけた息を途切れさせた。
 ――ああ。
 面に乗っていた表情がゆっくり消える。
 ――そういうことですか。
 結局、聖音鳥を使った移動は諦めて、乗り合い馬車を止めた。シャツについていた釦が銀製であったことが幸いした。ふたつみっつ御者に運賃として渡すと、酒を引っ掛けた赤ら顔を緩めて、後方部の帆布を開いた。降り続いていた雪は止んで、雲間から星天がのぞいていたが、真冬の夜更けである。外套ひとつ羽織っていない傷だらけの男と少女という組み合わせは、容姿とあいまって奇妙に映ったにちがいないが、御者は何も言わず、イジュを馬車に上げた。口止め料も含めて、運賃は多めに渡してある。こういう術は、ユグド王宮で多く学んだ。
 中は積み荷がいくつか無造作に置いてあるだけで、他に客はいなかった。息を吐いて、麻袋のひとつに寄りかかる。ベニヤ板を打ち付けて作っただけの荷台は、風雨よけの帆布こそつけてあったが、冬の夜の寒さはとてもしのげそうにない。固まった血のこびりついた指先に息を吹きかけ擦っていると、聖音鳥が膝の上に頭を乗せた。この子は、寒さを感じることができるんだろうか。考えつつ剥き出しの肩をさすると、ふるっと心地よさそうにかぶりを揺らして、寝息を立て始める。背中に流れた白亜の髪を梳いているうちに、イジュもまたつかの間眠りに落ちた。逃げ出した自分を聖音鳥はずっと待っていたのかと思うと、少し胸が痛んで、忘れていたいとおしさが蘇った。
 馬車の荷台が大きく揺れる。

「つきましたよ」

 しわがれた御者の声で、イジュはまどろみから目を覚ました。同様にぼんやりと目をこすっている少女を呼んで、抱き上げる。

「こんな時間に、何をする気かわかりませんけどね。ここらは物騒だから、早く帰ったほうがいいですよ」

 荷台から降りると、凍って固くなった雪が足裏を刺した。裸足で出てきてしまったことに今さら気付いて、片頬を歪める。

「……物騒?」
「ええ。少し前に、ここらで王女様の馬車が襲われたんですよ。知らなかったですか?」
「いえ……。それで、その、王女は」
「行方不明です。こんな谷じゃ、死体も上がらない。憐れなもんです。姫様は皆に愛されていましたからねえ、花が絶えませんよ。冬だもんで、紙でつくった花ですけれど、俺もひとつ――」
「もう、いいです」
 
 御者の言葉を遮り、イジュは糸杉が密集する森に向かった。一時くらいならパイプを吸ってますよ、と御者が背に声を投げたが、振り返る気は失せていた。ひとがよく通るからか、森の中には雪を踏みならした道が自然とできあがっている。しばらく歩くと視界が開け、ヘルヴィンナの峡谷が見えた。かさかさと乾いた音を鳴らして、白い花が雪の上を舞っている。御者が言っていた紙の花だろうか。ズボンの裾に絡んだひとつを取り上げると、聖句が書かれていることに気付いた。
 
 ――どうか、やすらかに。この世界樹のかいなで。

 死者に捧げる祈りの言葉だ。
 何故かそれを見たときに、イジュの頬に浮かんだのは泣き笑いにも似た苦笑だった。

「シュロ」

 森を歩く間、抱えていた少女を雪の上に下ろす。
 温もりがなくなったことに聖音鳥は少し嫌そうな顔をしたが、イジュが両肩をつかんで引き立たせると不思議そうに顔を上げた。

「あなたは、ルノ=コークランに会ったことがあるはず」

『……私、聖音鳥に会ったのよ』

 かつて、緑の垣根を背にして呟いていた王女を思い出す。

「こーくらん?」
「そう、コークランです」

『背中に白くてきれいな翼が生えていて、だけど、その翼はたくさん傷ついていた。大きな鉄の鳥籠に入っていて、すごく苦しそうだったの』

「おもいだして。彼女は今、どこに?」

『私、あの子を助けてあげなくちゃ』

 風のにおいを嗅ぐようにめぐらせた聖音鳥の視線がやがて一点にとどまり、すいとそちらを指でさす。ヘルヴィンナの峡谷を。だから、イジュは崖を踏み越えた。ぃやあああああああ!!! 聖音鳥が慟哭する。崖下に向かっていたはずの視界が反転する。空が遠のく。激しい水音を上げ、気付けばイジュは川の浅瀬に落ちていた。腰には聖音鳥の腕が巻き付いている。

「なんで……」

 四肢を暗く冷たい水に浸したまま、崖上を仰ぐ。
 遠い。とても、とても遠かった。華奢な少女の身体があそこから落ちれば、川にたどりつくことなく砕けて潰れるだろう。そういう高さだった。天の高さを仰いでいられなくなって、イジュは川底へ手を伸ばした。浅瀬に転がる石をひっくり返して、何か、何かないのかと探す。石は無数にある。いくら転がしても押しのけても暗く冷たい水が吹き上げるばかりで、それすらも指のあいまをすり抜けて流されていく。かじかんだ指がうまく動かなくなり、つかもうとした石を取り落とした。それでも無理やりに川の水に手を入れた指先が、水面をたゆとうていた白いものをすくう。崖上に無数手向けられていたあの花だった。インクのぼやけたそれは、引き上げる前にイジュの手の中で溶けて消えた。――ああ。吐息が漏れる。ああ。ああ。ああ。断続的に漏れた息を覆うように口元に手をやると、もうとどめておけなくなった。あああああああああああ!!! 浅瀬に座り込んだまま、天を仰いで、幼子のように途方に暮れる。だれか。だれか。だれか。神でもなんだっていい。わたしをあいしているなら、はやく殺してほしい。さいしょからうまれなくってよかったんだ、こんなことしか起きない! こんなことしか起きなかった!!! うぶごえをあげるそのまえでいい。殺して。それで、ねえさんをいかしてあげてよ。

「どうして、なくの?」

 泣き濡れた頬にふわりと指が触れる。その指は、温かった。きっとイジュが凍え過ぎていたせいで、その指はとても温かく思えた。イジュは少女の腰に腕を回す。力任せに引き寄せて、きつく顔をうずめた。そうでもしなければ、生きていられなかった。生きて、いられなかった。

「わたしを、よんで?」
「――……しゅろ、」
「そう、シュロよ。わたしは、シュロ」
「シュロ、シュロ、シュロ……」

 繰り返す男を見つめ、少女はうふふ、とわらった。


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