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06




『いい? シュロ。君と俺とでひとつきり、約束がある』

 そう言って、金眸の魔術師は彼の左胸を指でさした。絹地の衣の下のちょうどそのあたりには、聖音鳥の噛み痕が薄く残っている。しかしそれも、数年すれば消えるのだという。祭壇画ではよく左胸に三本の爪痕を持つ聖女が描かれているが、そういった因習があったのはもう七百年も昔で、今では聖女を継承する際に聖音鳥からほどこされるのは啄むことで刻まれる噛み痕だけだった。

『聖音鳥は君を『私の王』と呼んだ』
『はい』
『君は知らないだろうけれど、この千年間、聖音鳥がそう呼んだ人間はひとりきりしかいない。――ソレイユ=リシュテン。昔この場所に存在した国の最後の女王だよ』

 ソレイユ=リシュテン。
 聞いたことのない名だった。ユグド王国の成り立ちや歴史なら、先生たちから習ったはずなのに。素直に眉をひそめた彼に微笑み、金眸の魔術師は陽当たりのよい窓辺に軽く腰かけるようにすると、大きな手のひらで彼の頬をくるんだ。先生たちや、父やツァリ。彼の知る誰とも違う魔術師は、いつも黒ローブから嗅ぎ慣れない外のにおいをさせて、突然彼の前に現れるたび、チョコレートやタフィなどの甘いお菓子をひとの目を盗んでくれた。
 窓辺で煙草をふかす魔術師の隣で、両手に余る大きなビスケットをかじる。
 懐かしい記憶だった。
 ほんの短い間、教会に出入りしていた金眸の魔術師。皆がクロエと言っていたけれど、彼だけは魔術師をエン、と呼んだ。今ではあまり見かけない、すっきりした音の調子がこの謎めいた魔術師にはいちばん似合っている風に思えたし、それに、魔術師がエンの名前を教えてくれたのは知る限り自分だけだったからだ。

『聖音鳥はきっと君をそそのかす。わたしをのぞんで。わたしをもとめて。わたしを呼んでって。けれど、それがどんなに悲痛な声でもこたえちゃいけないよ。聖音鳥は君を孤独から救ったりなんかしない。決して。覚えておくんだ。かつてソレイユ=リシュテンはその力でこの国を――』




 瞼裏に射した光に眉間のあたりが痛んで、イジュは目を開いた。
 まぶしい。いったいここはどこで、今はいつなのか。おぼつかない仕草で幾度か瞬きをしたイジュの額に、不意にどさっと氷嚢が落とされた。

「なっ!?」
「お目覚めですか、聖女様」

 冷たさで一気に意識が覚醒する。明瞭になった視界に最初に映りこんだのは、氷嚢を投げた手をズボンで拭いている北騎士ツァリ=ヨーシュだった。

「よくお眠りだったみたいで結構、結構」

 こちらに一瞥をやると、ツァリは引き寄せた丸椅子に膝を組んで座った。

「枷を壊して失踪したと思ったら、ヘルヴィンナの峡谷で川遊びとは優雅じゃねぇか。氷魚釣りが見つけなきゃ、お望みどおり凍死体のできあがりだ」
「ここ、北の塔ですか」
「そうだよ。歩き回って満足したか」
「……ええ」

 満足しました、と呟くと、ツァリは少し意外そうに眉を上げてから、口を閉じた。頬が熱く、視界が潤んでぼんやりとしている。発熱しているらしい、というのは聞かずともわかった。汗ばんで額に張り付いた前髪をかきやろうとして、右手首に走った疼きに頬を歪める。赤く腫れていたはずの手首には、包帯が巻きつけてあった。ツァリはこんな丁寧な巻き方はできないから、世話係の娘だろう。

「国王代理の承認式は、十日後だ。出番ですよ、聖女様」
「そうですか」
「リリー。水を持ってこい。聖女様が目を覚ました」

 椅子を蹴って、ツァリが世話係の娘を呼ぶ。用は済んだとばかりにドアへ向かうツァリから目を離し、イジュはシャツ下の左胸に指を這わせた。そこには、三つの爪痕が皮膚を引き攣れさせるようにして刻まれ、鼓動に合わせて脈打っていた。



 

 教会の鐘が鳴る。
 国王代理の承認がなされたその日、王都ユグドラシルの天穹は蒼く澄み渡り、まだ眠りのさなかにある花たちも、いつもは凍てつく風すらも優しくまろび、深い傷跡に喘ぐ王国を慰めるかのようだった。長らく表に姿を見せず、一時その真偽すら問われた聖女シュロ=リシュテンは、王立教会の礼拝堂に姿を現した。薄絹のヴェールをかぶり、白の長衣を纏った乙女。シュロ=リシュテンが歩を踏むだけで、さやかな衣擦れの音が鳴る。
 名だたる貴族と七大老をはじめとした聖職者が見守る中、ウル=コークランただひとりが聖女の足元でこうべを垂れた。薔薇窓から射し込む光が赤や緑の影を大理石に落とす。虹色に指先を染めた聖女が、世界樹の枝を編んで作った冠をウルのこうべに載せた。樹天から、ほろろと歌声が響く。聖音鳥。澄んだ鳥の祈りにも似た歌声に、外で手を擦るひとびとの頬にも熱い涙が伝った。



 さぁ、花よ歌え。風よ祝え。
 祝福を示したし。この白き世界樹のもと……



 ――――だん!!!
 己の手を深々と貫いた刃を見つめ、男は血を吐くがごとき叫びを上げた。
 いったい、なにが。どうして。
 混乱してがむしゃらに身をよじろうとした男の口を押さえつけ、「静かに」と低い声で囁かれる。涙と鼻水に塗れた顔でこくこくと首を振ると、ようやく手を離された。
 その日は、満月だった。
 月光を背に受けた襲撃者は灰色のローブを纏っており、顔はよく見えない。悪い酒を引っ掛けて、酔いどれの態で帰宅するさなかだった。気付けば路地裏に引きずり込まれ、抵抗しようとしたところ、手を貫かれた。短刀で刺し抜かれたままになっている彼の左手は、ともすれば火傷のように感じられる激痛に痺れ始めている。追剥か、人買か。恐ろしい想像に身を震わせた男に、しかし相手の男は妙なことを尋ねた。

「ヘルヴィンナの森に、ルノ=コークラン王女とニヴァナ=リシュテン侯爵を運んだのはあなたですか」
「あ、ああ……。俺とあとふたり……。ひとりは逃げ出して、もうひとりは銃声がしたあとすっ飛んで行ってそのまま……」
「銃声」

 少し考える風に間を置いてから、「続けてください」と男は言った。

「あなたが馬車を止めたとき、周りにひとはいましたか。馬車や荷車といったものは。銃声がしたあと、逃げていく賊の顔は見ましたか」
「い、いや、みてない」
「本当に?」

 貫いた刃をさらに押され、悲鳴を上げる。ほんとうだ、ほんとうだよぅ、と彼は涙まじりに訴えた。

「誰もいなかった。銃声がして、争う声が聞こえた。怖かったから、俺は馬車の中で目を瞑って震えていた。それで、しばらくしたら、足を怪我された侯爵があらわれて、近くの民家まで運んで手当を……。それだけだ、それだけなんだ」
「そうですか」

 うなずくローブの男はいたって淡白だった。相手の興味がどうやらそれたらしいことに安堵した男は、しかし次の瞬間、すぐかたわらで骨が砕ける音を聞いた。

「あぁあああああぁああああ!!!」

 弓なりにそった喉から悲鳴がほとばしる。解放されるどころか、今や男の左手までもが塀に縫い止められていた。悶えようにも、穿たれた右と左がそれを阻む。

「ありがとうございました。では私はこれで」
「抜い……、抜いてくれ! 死んじまう! こんな夜更けにこのまま放っておかれたら、死んじまうよ! なにもしてないのに! 俺は何も……!」
「ええ。あなたは何もされてませんよ。まったく、何も」

 はずみに、灰色のローブが風に煽られて翻る。一度足を止め、わざわざ振り返った男は、啜り泣く男を眺めると、翠の眸を細めて微笑った。憐れみ深い、聖女のような貌だった。
 直後、響いた銃声を最後に彼の意識は永遠に途絶える。

「おいで、シュロ」

 天穹へ腕を差し伸べれば、銀色の羽を持つ鳥がふわりと男のもとへと舞い降りた。風向きか、月が照りながらも粉雪の舞う中、男の首に細い腕を絡めて、鳥が口ずさむ。



 さぁ、花よ歌え。風よ、祝え。
 その王国の名を。
 祝福を示したし。この白き世界樹のもと――……



 まるで挽歌だと、ローブを引き寄せながらイジュは思った。



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『覚えておくんだ』
『かつてソレイユ=リシュテンは、その力でこの国を』
『ユグドラシルを一度、滅ぼしたんだ』



……Episode-6,END.

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