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Episode-7,「夜明けの天穹とイルテミーシアの船出」




01


 
 ソラミラの村を例年にない寒波が襲っていた。
 ユグド王国建国千年の聖夜から、明けて翌年。王女ルノ=コークランの捜索は打ち切られた。ついぞ遺体は上がらなかったが、王女がヘルヴィンナの峡谷に落下したことは複数の者が証言しており、峡谷の高さを考えると万が一の奇跡すら起こることはないように思われた。
 捜索の打ち切りは、ユグド王室が王女の死亡を認めたに等しい。まだ若い王女の死に涙し、ソラミラの村人たちは祈りを口にしながら、布で作った花を王都へ続く川へと流した。
 そのソラミラへ荷馬車のひとつがたどりついたのは、年が明けてしばらく経った夕時である。

「リシュー!!」

 荷馬車から降り立った女性を見つけた少女が、水桶を運んでいた手を止めて、駆け出してくる。はずみに雪に足をとられて転びそうになったのをリシューの腕が受け止めた。

「アリア! あんたったら、こんなところで何してるの」
「かあさんがお熱を出したから、雪を運んでいたの。よかったリシュー。もう帰ってこないんじゃないかって思っていたの。おかえりなさい!」

 ぱっと笑顔になったアリアをリシューは抱きしめ、赤く腫らした少女の手のひらをいとおしげにさすった。この時期ソラミラでは大雪が降って、陸路の多くが閉ざされてしまう。巡礼街道だけは機能を保っていたが、それだって今では十日に一度、行商がやってくるくらいだ。

「こんなに手を冷たくして。薬草なら、うちに少し残っていたはずよ。一度帰りましょう。――あんたたちも、いいわね」

 荷馬車を降りたのは、リシューだけではなかった。女と男、それから彼らより小柄な影がひとつ。灰色のローブを頭から深くかぶっているせいで、性別はわからない。人通りの多い巡礼期ならばともかく、この大雪の中ソラミラにやってくる旅人はたいそう珍しかった。目を丸くして三つの影を見上げたアリアは、けれどすぐに、あっと叫んだ。

「おねえさん!」

 よく見れば、秋の頃にやってきて水汲みを手伝ってくれた女性だった。確か、オテルといったか。

「また来てくれたの?」

 うれしくなって飛びつくと、オテルは困った風に苦笑した。

「ああ。悪いな、また少しの間世話になる」
「ここに泊まっていくの? うれしい! 冬はあんまりひとが来なくて、さみしかったの。また遊んでくれる?」
「……いや、あまり長くは……ってアリア! 聞け!」

 かじかんだ手を取って走り出そうとすれば、弱り切った声をオテルが上げた。「どうして?」と唇を尖らせると、オテルの代わりに、隣に立っていた男がぷっと吹き出す。そのままおなかを抱えて爆笑を始めた男をアリアは呆けて見上げた。

「おい、クロエ!」
「いやーちがいますよ? 俺は君が子どもに懐かれているのが珍しかっただけでさあ。子どもと男嫌いは治ったの、オテル術師? ワタシはいいから、アリアと遊んできていいですよーう?」
「ふ、ざ、け、る、な!」
 
 こぶしを振り上げたオテルから、ひょいと身をかわして、男はアリアの前にかがみこんだ。まだ二十前後ほどの若い男だ。異国めいた黒髪に、眸の色はこのあたりでは見かけない金をしている。

「はじめまして、アリア。俺はカラス。少しの間だけ、よろしくね」
「カラス? へんな名前ねえ。本当?」
「アリア!」

 呟くと、とたんにリシューが顔をしかめた。何かとてもいけないことを口にしてしまったみたいに。けれど、カラスのほうはあんまり気にした風でもなく、くすくすと笑う。

「俺もそう思う。いいのが浮かばなくてさ。よい名前を思いついたら、つけてよ」
「でも、名前はおとうさまとおかあさまがつけるものよ。私が勝手につけてはいけないわ」
「そっかなあ」
「そうよ」

 腰に手をやって厳かにうなずくと、カラスは肩をすくめた。

「あなたの名前は? 私はアリア」

 カラスとオテルから少し離れた場所にたたずんでいた小柄な影に近付き、尋ねる。灰色のローブをのぞきこんで、あっ、とアリアは息をのんだ。ローブの下にいたのは、少女だった。それもとてもきれいな顔立ちをした。睫毛は長く、膚は抜けるように白い。寒さからか、頬は淡い薔薇色をしていた。眸は蒼。天上とおなじ蒼色だ。

「――……名無しノーネーム

 しばらく考えるような間があったあと、少女が呟いた。

「のーねーむ?」

 アリアが眉をひそめると、それまで人形のようだった少女の口元にふわりと笑みが載った。茫洋としていた眸に確かな意思が宿って輝き出す。

「そうよ、名無しというの。よろしく、アリア」


***

 

 リシューの住む『青の家』は、村のひとつきりの教会の隣にある。
 ソラミラ村では、身寄りをなくした子どもたち、老人は教会のそばに立つ『青の家』に集まり、共同生活を営んでいた。リシューは数年前、巡礼街道で生き倒れかけていたのを村の老神父に拾われ、以来彼の手伝いをしながら共に暮らしている。カラスとオテル、それから名無しと名乗った少女もしばらくの間、『青の家』に置いてもらうことになった。

「クロエ」

 揺り椅子にもたれたカラスが本を繰っていると、背もたれにひとが立つ気配があった。オテルだ。いつもの黒ローブではなく、村娘と同じ生成りのスカートに羊毛の上着を重ねた彼女は心なしか幼く、年相応に見える。眉間に刻まれたきつい縦皺を除いてだが。

「『カラス』。クロエはもういい加減、古い」
「……彼女は?」
「リシューが看ているよ。もうずいぶんよくなってきたみたいだけど」

 暖炉に集めた小枝を足し、カラスは奥へと目をやった。
 厨では子どもたちがどんぐり粉を練ってパンを作っている。今日の晩ごはんなのだという。この家で唯一の暖炉の周りには、カラスの他にも老人や年少の子どもたちが集まって繕い物をしていた。やってきたときは、興味津々であれこれ尋ねてきた子どもたちも今ではすっかり慣れて、カラスとオテルがかたわらにいても何も言わない。
 名無しの肩には銃創がある。傷はほとんど塞がっていたが、見る者が見れば、すぐにわかるだろう。子どもたちや老人の目を避け、リシューが自室で手当てをするのはそのためだった。

「王女ルノ=コークラン」

 オテルが呟いた。とても小さな声であったので、聞こえたのはカラスだけだろう。

「記憶は戻らないのか」

 カラスは葉巻に火をつけた。
 
 話は数か月前に遡る。
 カラス――もとい、シャルロ=カラマイはオテルとともに、ヘルヴィンナの事件があったあの日、ニヴァナ=リシュテン一行をつけていた。目的は、未だ二ヴァナの手の内にあるシャルロ=カラマイの懐中時計を取り戻すためである。とはいえ、ニヴァナのそばには常に従者の少年ルタ――おそらく魔払いの力を持った少年である――が侍っており、容易には近づけない。オテルは優秀な術師だが、シャルロ=カラマイは時計がなければ、ただ「死なない」だけの常人で、おまけに手負いだった。
 そこで、転位術を考えた。
 古く星詠みの塔が存在した時代に考案された、輸送系統の術式のひとつだ。時間と空間を絡めた術式は高度で、術者にかなりの負担を強いるが、時計ひとつ程度ならば、オテルでもどうにか耐えられた。リシューとシャルロ=カラマイはあらかじめ『輸送先』にあたる王都郊外に控え、オテルのみが残ってニヴァナが時計を取り出す隙をうかがう。用心深いこの男が肌身離さず時計を携帯していることをオテルたちは知っていた。
 最初は鴉に化けてニヴァナを襲う方法を考えていたのだが、思いのほか場の空気が険しいことに気付いた。ルノとニヴァナは何かを言い争っている様子で、飛び出す隙がない。何よりもおかしな動きをしていたのは、二ヴァナ付のリシュテン兵たちだった。馬車周りで控えていたはずの彼らはおもむろに持ち場を離れ、足音を忍ばせてヘルヴィンナの森へ分け入る。王女を守るユグド王兵たちに気付かれないよう、林に身を隠しながら進むさまはまるで――。
 まるで――?
 恐ろしい予感に駆られたオテルが身を翻そうとしたとき、不意にニヴァナのかたわらに侍っていた従者の少年ルタがこちらを振り返る。そして、林にひそむリシュテン兵たちに向かって顎を引いた。
 銃声が轟いた。
 身を隠していたリシュテンの兵たちが一斉に立ち上がり、ユグド王兵を襲う。とっさにニヴァナを確認した。男の目に驚きはなかった。ありありと動揺を滲ませているのはむしろ隣の王女のほうだ。王女の護衛らしい男が撃たれ、駆け寄った王女が肩を撃たれる。オテルは苛々とそれを見守った。助けに入ることはできた。できたが、王女を守ることは自分に課された使命ではなかったし、今はニヴァナから時計を取り返すほうが先だ。術を行使するには、相応の準備が必要となる。今から転位以外の術式に変更すれば、いったん集中が途切れ、再び組み立てるまでに時間がかかってしまう。反対にこの混乱に乗じれば、時計を取り返す機会は必ずめぐる。
 地面に転がった王女が銃をつかんだ。どうやら倒れた護衛を守ろうとしているようだったが、構え方は不慣れで、隙だらけだった。ああ、とオテルが吐息する間もなく、ルタが撃った。体勢を崩した王女が崖から落ちる。嘘みたいに小さな身体だった。

『私はルノ=コークラン。この国の王女よ』

 瞼裏で刹那、閃いた。
 教会の中庭で淡く光を帯びて、微笑む少女の。
 ――ああ、ちくしょう。
 オテルは転位の『対象』をルノ=コークランに定めて、術を発動させた。


 ・
 ・


「まさか君が姫を助けるとは思わなかったよ、『ユゥリート』。君みたいな子でも情にほだされるのか」

 葉巻の苦味を帯びた味わいが肺腑にしみる。教会で使っていたほうの名で女を呼ぶと、オテルは思いきり顔をしかめた。

「甘さがうつったんだろう。説得しにいったが裏切られた挙句、撃たれて囚われた男の」
「厳しいなあ。まだ怒ってんの? 俺が二ヴァナに会いに行ったこと」
「別に怒ってはいない」

 ふうん、と相槌を打ち、カラスはにわかに痛んできた眉間のあたりを葉巻を挟んだ指で押した。オテルが肘かけにそっと身を寄せる。

「これから、どうする? 情報屋からの話だと、王都に入る検問はヘルヴィンナの事件以来厳しくなっていると聞く。二ヴァナは当然追手を放つだろう。それでも戻るか、あるいは……」
「逃げちゃうか?」
「だが、時計が取り返せない」
「……それはまあ、一回諦めるしかないんじゃないの」
「あきらめる、って」

 他人事のようにカラスが言うと、オテルは物言いたげに押し黙った。
 懐中時計を失う。それは、魔術師としての能力の喪失を意味する。
 何故なら彼らの扱う魔術の発動には、各自が定めた呪物が不可欠で、簡単には代替が利かないからだ。ユグド魔術は、基本式と呼ばれる術式があり、魔術師たちはそこに我流の計算式を加えて、自分が扱えるものに変える。その際必ず式に組み込むのが、術式の発動キーになる呪物で、カラスにとっては懐中時計がそれにあたった。千年に及ぶ年月で、カラスが編み上げた術式は千を超える。そしてそのすべてについて、今は発動ができない。聖音鳥を捕えるほど高度で強力な術式などもってのほかだ。
 暖気のせいだろうか、一度はねじ伏せていた痛みが吐き気を伴ってせり上がってきた。葉巻でも誤魔化しきれなくなり、カラスは腰を上げた。

「頭痛い。やっぱり、もうちょっと寝てるや俺。この話はまたあと」
「……平気か?」

 それまで平静を装っていた女が不安そうに眸を揺らす。

「あまり痛むならリシューさんに頼んで医者を――」
「呼んで、どう説明すんのさ。頭に銃弾をぶちこまれましたが無事でしたって? 奇跡の生還どころの騒ぎじゃないね」
「クロエ、」
「『カラス』」

 オテルは傷ついた表情をして、深く俯いた。伏せた眸には後悔と罪悪が滲んでいる。きゅうと寄せられた女の眦に涙が滲む前に、カラスは息を吐いた。

「……嫌いなんだよ、医者。薬が苦いから」

 俯いたままのオテルの額を軽く小突くと、カラスは部屋を出た。暖められていた室内に比べ、廊下は冷える。額に触れると、熱かった。銃創は塞がっていたが、内部はまだ回復の途上なのか、未だにふとしたはずみにひどい頭痛に襲われて困っていた。

「カラス!」

 氷嚢を作ろうと思い、階段をのぼりかけていたのを引き返すと、ちょうど奥の部屋からリシューに連れられてルノが出てきた。頼りなげに彷徨った視線がカラスを見つけて、ぱっと輝く。

「どこへゆくの?」
「……外。氷が欲しくって」
「氷? ああ、本当ね」

 額に白い手のひらが伸びる。自分のそれと比べた少女は、「おまえったらまた熱を出している」と苦笑した。

「眠っていていいわよ。私が持って行ってあげる」

 向けられた眼差しは柔らかい。蒼の眸は甘く緩まり、口元には微笑が湛えられている。曇りのない親愛の情。少女の向ける眼差しが、今のカラスにはたいそう居心地悪かった。ここにいる少女は自分の知っている王女とは別の誰かなのではないかとすら思う。
 彼女は彼の前に立つとき、常に張りつめた弦にも似た緊張を抱えていた。それが彼には少々憐れなくらいだったし、他方、愉快さを感じてもいた。ルノ=コークランは、射殺さんばかりの眼をして、カラスを見た。

「じゃあさ、ついでにリシューの焼いたどんぐりパンをくすねてきてよ」
「やぁよ! リシューに怒られたくないものっ」

 ルノは早く行けとでもいうようにカラスの背中を押してくる。はいはいとうなずいて階段に足をかけると、満足したのか扉のほうへ駆けていった。木綿のワンピースに翻るのは染色した栗毛だ。窓から差し込んだ冬の陽が当たり、ほかの子どもたちの栗毛とは異なった光を帯びる彼女の髪をシャルロは目を眇めて見つめた。

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