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02



『――……ここ、どこ?』

 あの日、目覚めたルノ=コークランの眸は、いやに虚ろだった。
 被弾したのは、左肩と脇腹の二箇所。弾のひとつは貫通したが、ひとつが肉にとどまっていたらしく、取り出すときにひどい悲鳴が上がった。およそ膝小僧を擦り剥くくらいの怪我しかしたことのなかった姫君であるから当然だろう。処置はオテルがしていたが、扉を隔てた向こうから時折漏れてくるうめき声やすすり泣きが痛々しく、そのうちシャルロ=カラマイは力尽きて寝てしまったが、夢見は最悪だった。
 目覚めた王女は憔悴していた。幸い内臓の損傷はなかったようだが、身体の線に沿って流れる銀髪は艶を失い、シミューズから伸びた腕はほっそりとして青白かった。何より覇気がない。みずみずしい若葉のようだった少女が一瞬にして枯れ木に変じてしまったかのようだった。
 正直、辟易とした。
 シャルロ=カラマイからすれば、時計の代わりにルノが来たという形になる。自分の身体も本調子ではないのに、こんなあからさまに傷ついた子どもを相手にしなくてはならないのが面倒だった。それでも、ルノとかろうじて面識があるのは自分だけなので、仕方なく寝台のそばの椅子に座った。

『お目覚めですか。姫』
『……ひめ?』
 
 少女が首を傾ける。そうすると、はらはらと乾いた銀髪が肩を滑り落ちて、頼りなさが増した。

『ひめ、というの。わたしのなまえ』
『はあ? 名前というか。まさか、変なところを打ったんじゃないよねえ、ひ……ルノ』
『るの』

 蒼い眸は不安と怯えに揺らめき、縋るようにシャルロ=カラマイを見つめる。とても冗談や嘘を言っている様子ではない。

『オテル』

 隣でタオルを絞っていた女に横目をやる。
 オテルは肩をすくめた。

『おまえを見たら、何か思い出すかと思ったんだが。だめだったようだな』
『どういうことだよ。君が術をかけたんじゃないよね』
『起きたらこうなっていた。記憶喪失……、外傷は見当たらないから、転位術の影響による一時的な錯綜か、精神的なものだろう』
『どうしてそうややこしいことになるんだ。くっそ面倒くさい。コークランの血は俺を困らせることにかけては一流だね、まったく』

 記憶を失っているとはいえ、王女は王女だ。ルノが生きていることが知れれば、二ヴァナは口封じに刺客を放つだろう。いくらシャルロ=カラマイでも、記憶喪失の少女を極寒のユグドラシルに放り出すほど薄情にもなれない。

『それで、おまえは誰なの?』

 こちらの懊悩を知らず、王女はのん気に尋ねた。

『俺? 俺は――、今の名前はまだ、決めてない』
『そう。なら、私と同じね。“名無しさん”』

 ふふっと少女は愉快そうに微笑んだ。



 回想を打ち切り、ベッドに倒れ込むようにして横たわる。きつく目を閉じると、脳髄を抉る疼痛は脈とともに徐々に落ち着いていった。とろとろと居心地の悪いまどろみに落ちる。外から笑い声が聞こえたので、枕に顔を押し付けたまま視線だけを窓へ投げると、アリアとバケツに雪を集めているルノの姿が見えた。その横顔はあどけない。かつて、泣きそうな目をして、それでも自分を睨み返してきたのが幻だったと錯覚するほどに。
 
 ねえ、これが。
 これが、君の望んだことだったのか。ルノ=コークラン。
 教えてよ。


***



 男が泣いている。
 もうとっくに成人を済ませているはずの男は、しかし力なく地べたに座り込み、声を上げて泣いている。まるで迷子になった子どもが、手当り次第声を上げているみたい。どうしてそんな風に泣いているのだろう。何がそんなに悲しいのだろう。不思議で、だけれど男の泣き声があまりに悲痛であるのがたまらなく、わたしは暗く冷たい浅瀬に素足を浸して、男のほうへ向かっていく。
 昔からそうだったのだと、思い出す。***が泣いているのは嫌。だって、***はわたしだけのものだから。***を傷つけるのも、傷つけてよいのもわたしだけだから、他のものに勝手に傷つけられるのは許せなかった。
 苦心して目の前にたどりつくと、男が顔を上げた。だれですか。まだ泣き濡れた顔で男が尋ねる。水膜の張った翠の眸が雨上がりの濡れた葉のようで、きれいだと思う。

「あなたは、だれですか」



 その声で、目が覚める。

「シエラ!」

 視界に飛び込んできたアリアは、目を瞬かせたこちらをみとめると、「やっと起きた」と歯を見せて笑った。雨戸を開いた窓辺からは、弱い冬の陽が射し込み始めている。朝だった。

「起きて。今日はシエラが運び当番だよ」

 それから思い出した風に「おはよう」と続けたアリアに、「おはよう」とシエラも返す。名無しを『シエラ』と名付けたのはアリアだった。名無しだと呼びにくいし、何より名前がないのは悲しいことだもの、とそういう理由で。

「先に行っているね。シエラも早く着替えて来るのよ」
「わかった」

 のろのろと身を起こすと、アリアは栗鼠のような身軽さで寝台から降りた。階段を駆け下りる軽やかな足音を聞きながら、シエラは身体にかけられていた毛布とシーツを剥ぐ。シミューズからむき出しになった左肩には、今はもう引き攣れた筋を残すだけの傷痕がある。同じ傷は脇腹にもあって、少し前まではどちらも激しい痛みと熱を持っていたけれど、リシューの熱心な看病のおかげか、今は落ち着きつつあった。
 どうしてこのような負傷をするに至ったのか、シエラは覚えていない。
 目が覚めたとき、左肩と脇腹にはすでに痛みがあって、シエラはしばらくの間激痛に悶えながら夢と現の間をさまよった。最初のうちはもっといろいろなことを覚えていた気もする。けれど、夢から現に戻るたびに、それらは薄い硝子が剥がれ落ちるようになくなってしまって、最後には何も持たないシエラだけが残った。
 目覚めたシエラの前に現れたのは、オテルという女と、名無しの男と、それからリシューだった。名無しの男は途中でカラスと名乗り始めたし(それはちょうど窓辺に留まっていたのが一羽の鴉だったからというとても安易な理由だった)、シエラも名前がないのが当然だったから、アリアに悲しいことだわ、と言われたときには驚いた。
 名前を持たないのは悲しいことらしい。
 そうなのかしら、とシエラは張りつめた天穹を仰いで、リシューが縫ってくれた木綿のワンピースに袖を通す。シエラには、名前がないことは果てのない天穹のように無限のことのように思えるのに。


 階段を下りると、焼きたてのパンの香ばしいかおりがくゆる。
 リシューのどんぐりパンだわ!
 うれしくなって、シエラは鼻歌をうたいながら残りの階段を駆け下りた。暖炉のそばに置かれた長卓には洗い立てのテーブルクロスが敷かれ、おじいさんやおばあさん、年少の子どもたちがお皿の用意を始めている。

「シエラ、遅い!」
「ごめんなさいっ」

 年下のアリアに叱られてしまい、首をすくめつつ年長の子どもが棚から取り出したジャムの壺を食卓へ運んだ。焼きたてのどんぐりパンを山盛りに積んだ籐籠も運ぶ。レンズ豆のスープ鍋はこぼすと危ないのでリシューが持ち、代わりにシエラたちはスプーンやお皿といったものを並べた。少しすると、水汲みから帰ってきたオテルが席に着く。その隣が空席であることに気付いて、シエラは尋ねた。

「カラスは?」
「寝ている。朝食はいらない」

 出会った頃から、カラスは頭が痛いと言って寝てばかりいる。オテルのほうはきちんと渡された仕事はこなしているようだが、シエラとは最低限の会話しかしないし、時折監視するかのような鋭い眼差しを向けてくるのも落ち着かなかった。シエラにはオテルがどうしてそのような目で自分を見るのか心当たりがないのだ。

「イェン・ラー」

 集まった者たちで声を合わせて、食前の祈りを捧げる。シエラはさっそくお皿に載せたパンをちぎった。ぼんやりしていると、周りの子どもたちにパンを取られてしまうので、なるべく早くにおなかに詰め込んで、次のパンに手を伸ばさなくてはいけない。

「シエラずるい! それ、ぼくのだ!」
「取ったのは私が先だもの」
「えー、それ最後のパンだったのに……」

 空の籐籠を恨めしげに見つめ、エクと呼ばれるこの家でもいちばん年少の男の子が半べそをかく。苦笑し、「じゃあ半分ずつね」とシエラはふたつに割いたパンの片方をエクのお皿に載せてやった。エクのそばかすだらけの顔がぱっと明るくなる。

「やったあ。シエラはやさしくて、すき! お裁縫は下手だけどさ!」
「下手は余計よ」
 
 ぎざぎざのかたちで縫われているシャツを指差したエクの頭を軽く小突く。ひどい、とエクはやっぱり泣きそうな顔をしたが、構わずレンズ豆のスープを啜った。オテルは早くも食事を終えて、空になった皿を運んでいる。何も言わずに行ってしまうので、無口なひとね、と呟き、シエラは息をついた。
 食べ終わった食器を片付ける。料理がろくにできないシエラは、皮むきなどの下準備のほかには、洗い物や掃除当番へ回されることが多い。それでも最初のうちは皿を割ってよくアリアに叱られたものである。甕に貯め置きしている水は、外の雪ほどではないけれど、十分にひやっこい。エクと冷たい、冷たい、と言い合いながら手分けをして食器を洗ってしまうと、シエラは食堂を出て、リシューを探した。

「リシュー? いた」

 リシューは陽のよくあたる窓辺でほつれた釦を付け直していた。

「私も手伝うわ」
「働き者ねえ、シエラは」
「だって、エクがシエラは裁縫が下手っていうんだもの。悔しい」

 唇を噛むと、リシューは笑ってシエラに糸を通した針とシャツを渡してくれた。おいで、と呼ばれたので、樫で作った大きめの椅子にリシューと並んで腰かける。リシューは他の村人たちよりも淡いヘイズルの髪色をしていて、そばに行くと、いつも陽と石鹸の香りがした。

「いい? よく見てね。糸をここから通して、そうそう。結ぶときはいちばん気を付けるの」

 リシューの手が瞬く間に釦を付け直す。魔法みたい、とシエラが呟くと、「あたしもシエラの前なら魔術師ね」とリシューは笑った。

「リシューはなんだか、母上みたい」
「……あんた、おかあさんは?」
「死んだわ」

 と答えてから、「たぶん」と付け加える。脳裏にぼんやりと母らしき女性の顔が浮かんだが、それはひどく色褪せており、今よりずっと前の記憶なのだとわかった。けれど、寂しくはなかった。わたしにはいつも***がいたから。泣くことだって一度もなかったわ。

「“あなたのみむねにいだかれて、ねむられよ、さあねむられよ”」

 リシューが口ずさみ始めた歌に、シエラは瞬きをする。歌といってもずいぶんひどい。音程はめちゃくちゃで、普通なら歌であることすらわからなかっただろう。

「リシュー。あなたひどい音痴でしょう」
「失礼ね。これはあたしの好きな聖歌です」
「うん、知ってる」
「……シエラ?」
「知ってるわ」

 光の溢れる室内で、誰かが調子はずれの歌を口ずさんでいる。――ああ、わたしが眠っていると思って口ずさんでいるんだわ。へたくそ。へたくそな歌。

「どうしてかしら……」

 懐かしくて、涙が溢れた。それはとどめなく頬を伝い、手にしていたシャツに次々染みを作っていく。不思議だった。はじめて聞いたはずの歌なのに、どうしてこんなに胸を叩かれるんだろう。すん、としゃくりあげて、「リシューはこんなにへたなのに」と呟くと、「下手は余計よ」とリシューはさっきのシエラの口ぶりを真似つつ、シエラの頭を引き寄せてくれた。

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