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04




 しかれども、疑問を疑問のまま放っておくことができない、それがルノ姫のルノ姫たる所以である。カレーニョ夫人の舞踏会でまとうドレス合わせを終え、クレンツェ語の時間を終えると、ルノは衣装箪笥クローゼットから木綿地のシフトドレスを引っ張り出し、底の低いミュールの紐を結んだ。

「さ、イジュ、出かけるわよ!」
「は。どこへですか」
「馬鹿ね、天楼図書館に決まってるじゃない」

 いぶかしげな顔をする従者を促し、ルノは蒼いミュールを鳴らした。

 水と翠と歌の楽園、ユグドラシル。深まりつつある夏を謳歌するように、王都は七色の光に満ちている。この季節は雲が少なく空は青々とどこまでも澄み渡り、白い石畳に反射する陽光が目に眩い。巡礼街道には簡素な木組に麻布の張られた露店が立ち並び、多くの巡礼者たちで賑わっていた。今年はユグド王国の千年紀にあたる。それはすなわち、この地上に遣わされた聖音鳥がユグド王とともにイバラの王を討ち滅ぼして、千年ということだ。本当に気の遠くなるほどの時間、世界樹と石造りの教会はあの場所に立ち続けていたのだろう。
 尖塔が鋭い槍のように天を指してそびえ立つユグド王立教会はいつ見ても壮観である。その背後には、白い枝を空のほうぼうへ伸ばす世界樹ユグドラシル。内側から仄かに光を発しているかのような、透明な白磁のごとき幹にしばらく見とれてしまってから、ルノは気を取り直して教会の出入り口にたたずむ門衛に己の名前を告げた。付属大学や大学寮のほうは一般人が入れないよう厳しく取り締まられているが、天楼図書館と呼ばれる書庫や教会の礼拝堂などは広く開放されており、容易に中に入ることができる。書庫のほうを開いたのは、今の大学長リシュテン老の理解を得てスゥラ王が叶えた施策のひとつだ。黒金でできた門を通り、高いアーチ型の天井を持つ吹き抜けの回廊を進む。下も石で作られており、かつんかつんとミュールの踵の音がよく響いた。講義の合間の時間なのだろうか、黒ローブにロザリオを首にかけた神学生とおぼしき青年たちと何度かすれ違う。

「図書館で何か調べ物でも?」
「え、ええ。……ううん、違うわ。それもあるのだけど、別に行きたいところがあるのよ」

 黒ローブの男たちに意識がいっていたせいで、つい自分らしくもない歯切れの悪い答え方をしてしまう。怪訝そうに眉をひそめたイジュの腕を引いて、「いいから、ついてきなさい」とルノは先の言をまぎらわせるような毅然とした口調で言った。
 かつて、吟遊詩人のおじいさんと友達になれたときはこの大好きな従者に大好きなひとのことを話したくてたまらなかったのに、ことシャルロ=カラマイに関してはお喋り好きな自分が何故かぴったり口を閉ざしてしまう。できれば話さないで済ませたい。誰にも話さず、己の胸にだけ秘して。たぶんそれは――、大事なことではないからだわ、とルノは思った。

 一般人が立ち入ることのない裏庭のほうへ回り、ルノはあたりを見回してからひょいとその垣根に足をかける。さほど高くはない、柔らかな若緑の蔦が巻いただけの垣根だ。先日教会に忍びこんで以来、中の地理にはずいぶん詳しくなっていた。天楼図書館のある棟と、学生の講義室や大老の執務室を備えた大学棟は隣接しており、この垣根を越えれば、大学棟のほうへ抜けられる。世界樹を中心にして、王立ユグド教会、図書棟、大学棟、それから大学寮は円を描くように配置され、それぞれが渡り廊下で繋がっていた。先日迷い込んだ大学棟のほうを仰いで、あちらね、と狙いを定めていると、「きゃ、…!?」急に身体を後方に傾いだ。

「ちょ、何をするのよ!」
「それはこっちの台詞です。あなたこそいったい何をおっぱじめてるんですか」

 己の腰に腕を回した男は、猫か何かを抱き上げるかのように垣根からルノを引き剥がす。はぁ、と重い吐息がルノの髪を撫ぜた。

「先日の件で少しは反省されたかと思っていたんですが。この期に及んでまだお転婆をなさるおつもりで?」
「お転婆じゃないわ。私は大学棟に用があるのよ」
「用事があるなら、正門を叩いてお入りなさい。イイ御歳を召した淑女がはしたない」
「正門を叩いたら追い返されたからこっちに来たのよ」

 唇を尖らせると、イジュは眸を眇めて「……いつ抜け出しを?」とさらに二段階くらい温度の下がった声で訊いた。ああ、しまった。自分としたことがとんだ墓穴掘りをした。罰の悪さからルノが視線を逸らせば、「ルノさま」とイジュはぬくもりなんて一片も感じさせない表情のままルノの視線の先に回り込む。観念して、ルノは息を吐いた。

「お前がいないときよ。ルブランとここに来て、シュロ=リシュテンに面会を申し込んだの」
「リシュテンの聖女に?」

 少し驚いた表情をしてイジュはルノを見る。
 
「……何故?」
「何故って。決まってるでしょう、私が彼女に会いたいからよ」
「ですから、それが何のためなのかと聞いているんです。あなたは聖女に告解を乞うほど敬虔な信者でした?」

 淡々と尋ねる従者はまるで数世紀前の異端審問官か何かのようだ。イジュのくせに、いったいなんだというのだ。急に気に食わなくなってきて、「何よ」とルノは声を硬くして男を睨めつける。

「お前、私のすることに文句があるというの」
「文句はありませんが、場合によっては進言致しますし、事情によってはお止めしなければなりますまい。あなたさまのお命を守るのも私の仕事ですから」
「そう。お前はいったいいつから私の『鞘』でなく『盾』になったのかしらねイジュ」
「……ルノさま」

 一転して刺々しくなったルノの口調に気付いて、男は深く嘆息した。

「あなたはご自分の力を少々過信していらっしゃる」
「過信?」

 ぴくりと頬を引き攣らせ、男を仰ぐ。

「私が、いつ己の技量を見誤ったというの」
「あなたが思うよりもずっと、あなたの御身はか弱く脆いんです。先日この場所で、あなたはそれを思い知らされたのではなかったのですか」

 男の表情は澄み切った鏡のようで、それが反対にかっと頭に血を上らせる。反射的にルノは腰を抱く男の手を振り払った。ばしん、と思いのほか大きな音が鳴る。……手を。男に手を上げたのははじめてだった。暴言はたくさん吐いてきたけれど、手を上げたことは一度もなかった。怒りが急激に別のものに取って代わられる。みるみる萎んでいく胸のうちを持て余して、叩いた従者を仰ぎ見る。手の甲を赤く腫らした従者は、透明な翠の眸をこちらに向けた。力の行使に出なかったのは、この青年の優しさと聡明さだ。彼は目を伏せて、「……教会はリシュテンの聖女との面会を許さなかったでしょう?」と別のことを聞いた。

「ええ。ゆるしてくれなかった」

 常の気丈さを心がけて答えながらも、ルノは動揺を隠せない。
 散らばった理性をかき集めるだけの時間を稼ぐ必要があった。

「……私、聖音鳥に会ったのよ」

 ルノは大学棟の世界樹と接するあたりを仰いで、胸のうちにひとり秘めていたことを漏らす。だけどもそれを口にした瞬間、男の気息がぴたりと止まった。胡乱に思って顔を上げると、イジュはびっくりするくらいの無表情でルノを見ていた。まるで冷ややかな宝石のような翠の眸。常にない従者の表情に気圧されて、「聖音鳥に、会ったのよ」とルノは意味もなく繰り返した。

「この間、クレンツェの密売人に捕まったでしょう。あのとき、私はここであの子を見つけたのよ。背中に白くてきれいな翼が生えていて、だけど、その翼はたくさん傷ついていた。大きな鉄の鳥籠に入っていて、すごく苦しそうだったの。もしアレが幻じゃないのなら、――幻では決してないはずなのだけど、私、あの子を助けてあげなくちゃ。彼女を守るべきシュロ=リシュテンはそばにいなかったのよ」

 瞼を伏せると、聖音鳥の叫び声が耳奥に蘇ってくる。甲高いそれは、赤子のようで、どうしてかルノの胸を悲しくするのだった。あの鳥は、ルノがあんまり好きでないようだったけれど。でも、もう一度会って、話をしたら、何か変わるかもしれない。だって、ルノはあの白くてきれいな小鳥がキライじゃない。

「いい? わかったら、ついてきなさいイジュ」
 
 名を呼ぶ。いつもの傲慢な命令の仕方だった。それでも常であったのなら、彼は苦笑ひとつで、しょうがないですね、と肩をすくめてルノについてきてくれるのに。今はまるで心のない人形か何かのように、「……おおせのままに」と消えそうな声音で言うのだった。そんな顔をされたら、ルノは、困ってしまう。かき集めたはずの自信が急に萎んで、ルノはイジュをうかがった。

「……何よ。言いたいことがあるなら、言いなさいよ」
「いいえ、何も」

 もっと優しい言葉もかけられたはずだ。けれど結局自分の口から出てきた台詞といえば、いつもと変わらないひどく高慢なそれで、当然のごとくこの従順な従者が口を開くことなどなかった。


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