けれども、ルノは再度聖音鳥を見つけることはできなかった。 あの晩、蝋燭なしでは歩けないような深い闇に包まれていた回廊は、今は天窓から差し込む光で明るく、光の柱みたいだった月光もなければ、不思議な文様が浮かび上がるわけでもない。あたりをぐるりと見回し、ルノは自分が中に取り込まれた壁を注意深く押す。だが、びくともしない。力をかけてみても同じだった。 「おかしいわね、確かにここだったのだけど」 「棟を間違えたりはしていませんか?」 これといって目印もなく延々と廊下が続くだけの道のりを指してイジュが問う。けれども、記憶力には自信があった。 「ええ、それは間違いない。ただ違うことといえば……あのときは満月で、そこの窓からは月の光がきらきら射していて。あと足元の床に不思議な文字が浮かび上がっていたわ。確かあの男はマホウジンとか……」 「あの男?」 「――なんでもない」 思い出すのもわずらわしい金髪の頭が脳裏に浮かんできて、ルノは緩く首を振る。しかしシャルロ=カラマイがこの場所を封印だの、普通は入ることができないだの言っていたことは確かだ。それから、自分のことを「魔術師」だとも。やっぱり、あの男は一介の神学生などではない。 「いったい金貨を何枚積めば口を割るのかしら……」 呟いて、ほうと重いため息を漏らす。そのとき、ルノにならって壁のあたりをなぞっていたイジュがふと背中に緊張を走らせた。彼が腰に挿しているソードの柄に手をかけながら振り返るのと、角から黒ローブの学生が現れるのは同時だった。ヒヒに護衛術を叩き込まれたイジュは容易にソードを抜いたりはしない。青年がソードを抜けば、相手は確実に傷つけられることになるし、王女の従者である彼が「間違えて」ひとを傷つけることがあってはならないからだ。だから、柄にだけ手をかける、いつでも抜くことができるように。未だ状況がつかめないままのルノの身体を背後に押しやると、イジュは翠の眸を冷ややかに眇めた。 「どなたです」 「誰だ?」 双方の声が重なる。 その、相手のほうの声に聞き覚えがあって、ルノは自分の視界を覆い隠すイジュの脇から顔を出す。すると、こちらに一瞥をやった相手の男が驚いた風に黒の眸を瞠らせた。 「――……ウル?」 青年の姿を認めて、ルノもはっと息をのむ。 ユゥリート。 誘われた中庭には神学生らしき若者たちが多く集まっていた。草むらに置かれたいかにも手作りといった風の木製のベンチで読書をしたり談笑をしたり思い思いに過ごしている。ユゥリートが持ってきたのは、楡の樹で作ったのだというテーブルと三つの椅子だった。足が若干不揃いなせいで斜めになったテーブルにペンネからもらってきたのだという木の実のタフィーを置いて、「それにしても」とユゥリートは苦笑をする。 「あいつには聞いていたけど、本当に、ウル王子の妹姫だったんだな」 声にまだ戸惑いが残るのは、おそらくルノの姿ゆえだろう。ユゥリートは確か、かつらをかぶり、男装をするルノしか知らなかったはずだ。ペンネがどう説明したのかは知れないが、今のルノは質素とはいえど、木綿のシフトドレスに蒼のミュールという出で立ち。加えて、背にかかる銀髪も流したままにしている。ユゥリートはしばらく探るような、少々ぶしつけな目でルノを見つめていたが、やがて口元に柔らかな苦笑を浮かべた。 「言われてみれば、似てるよ、王子と。目元のあたりなんてそっくりだ」 そうして腕に抱えていた数冊の本とノートとを机に置く。ユゥリートの挙措や口調には王族へ対する気負いがなく、かつてペンネのお手伝いをしていた「ウル」に対するものとなんら変わりない。それがルノには無性に嬉しかった。 「何も言わないでいなくなってしまってごめんなさい。ウルは兄上の名前。私はルノ=コークラン。この国の王女よ」 改めて名乗り直すと、シフトドレスの端を軽く持ち上げ、略式の礼をする。 「私はユゥリート。改めてよろしく、姫君」 手を差し出される。笑みを綻ばせて握り返すと、すべらかな手のひらと一緒に何か冷たいものが肌に当たった。目を落とし、ユゥリートの小指に細い銀の指輪が嵌まっていることに気付く。教会で初めて会ったときもそういえば、目についたのだった、と思う。あのときは地方の風習か何かなのだろうと流してしまったが、思えば、農夫の子どもであったというユゥリートに高価な銀の指輪の取り合わせは少し不思議だった。贅沢を好みそうな性格にも見えない。 ルノのぶしつけな視線に気付いたのだろう。ユゥリートは指輪の嵌まった小指を撫ぜ、「気になる?」と尋ねた。 「大丈夫。盗んできたものじゃない」 「そんなこと、考えたわけじゃないわ!」 思いもよらぬ言葉に、ルノは大きくかぶりを振る。知ってるよ、とユゥリートは微笑み、指輪を大儀そうに抜いて、ルノの手のひらの上に載せた。ひんやりした銀の感触。銀には、魔を払う力があるという。だから、北方のほうでは生まれた子供に銀の指輪を握らせる習慣があるのだと聞いたことがあった。きれいに磨かれた銀はまるで鏡か何かのようで、きれいね、と知らず吐息を漏らし、ルノは陽光へ指輪を掲げる。内側にはU-R-E-T-Oの綴りが彫られていた。 「育ての親にもらったんだ」 「あの、あなたを大学に入れてくれたっていう?」 ユゥリートが食堂で懐かしそうに語っていた話を思い出して尋ねれば、よく覚えていたね、とユゥリートは切れ長な眦を和ませて微笑んだ。ルノが返した指輪をまた丁寧に小指に嵌めなおして、椅子に座る。ルノもまた、対面の椅子に腰掛けた。 「健やかに成長するようにって。あの男なりのお守りだったんじゃないかな」 「素適なひとね」 「うん。……まあ結構、いかさま師なんだけどね」 ふふっと笑い、ユゥリートは椅子を引いた。 「それで、ルノさま。この方はいったいどこのどなたなんです?」 腰に佩いたサーベルへ注意深げに手を置きながら、イジュが未だ硬さの抜けない声で訊いた。ユゥリートと挨拶を済ませたルノはそういえばそうだった、と背後に隙なくたたずむ青年を振り返る。 「ユゥリート。ここの学生よ。彼は、」 「姫君の従者殿だな。ペンネから聞いてる。なんでもこの前突然倒れたって」 「単なる貧血です」 ユゥリートの予想外の迎撃に憮然とした様子でイジュが訂正する。 ちょっと、とルノは思わず口を挟んだ。 「倒れただなんて聞いてないわ! いつ? どこでよ?」 「あなたさまを迎えに行った晩、ここでです。ですがご心配なく。単なる貧血でしたし、マルゴット先生にも異常はないって診断を受けましたから」 その話題はどうやらイジュにとってあまり触れて欲しくなかったもののようだ。常より冷ややかに早口で言葉を継いで、話を終わらせてしまおうとする。その態度がルノの気分を逆撫でする。 「イジュ。ちゃんと話しなさい。倒れるほどの貧血って何よ!?」 「知りませんよ、私の身体のことなんか。マルゴット先生に聞いてください。それより、ルノさま。ユゥリートさまにご自分の弁解をされなくていいんですか。何故あんなところにいたのか、普通だったら警邏に突き出されているところだと思いますが」 言い募るルノからユゥリートのほうへ視線を移して、イジュが問う。ルノとしてはそれとわかるイジュの逃げに張り手をかましたいことこの上なかったが、そうは言っても、この場にはユゥリートもいる。イジュの指摘はそういうところが周到で、余念がない。ルノはティーカップに目を落とし、ふぅと息をついた。こちらへ怜悧な視線を送るユゥリートへまっすぐ向き直る。 「聖音鳥を探しているの。それで、だめだってわかっているのだけど、あそこに。ごめんなさい、教会のひとには言わないでくれると嬉しい」 「……聖音鳥、か」 特段驚いた様子でもなく、ユゥリートはうなずいた。 「でも、どうして? 姫君ともあろうお方が珍獣ハンターというわけじゃないだろ?」 「それは……」 冗談めかすように言われて、ルノは口ごもる。 直接の原因は、あの晩、教会の一室で出会った白い翼を持つ少女の姿だった。籠に入れられ、翼を傷つけながら、途切れそうな声で歌っていた少女。 「ここで、聖音鳥を見たのよ」 結局、ルノはシャルロ=カラマイを抜かしたあの晩の顛末をおおまかに語った。謎の抜け道から転げ落ちて、そこで聖音鳥に会ったなどと、さすがに笑われてしまうのではないかと思ったが、意外にもユゥリートは終始真面目な表情で耳を傾けてくれた。クレンツェの密売人のところまでを語り終えると、ユゥリートは思案げに端正な顎へと手をあてがう。 「確かにあのあたりはちょうど、世界樹と接している箇所だな。私たち学生も入れないようになっているし、世界樹に住まう鳥がいてもおかしくない」 「おかしくない、じゃなくて、確かにいたのよ」 生来の勝気さが出て思わず言い返してしまうと、ユゥリートは「そうだった」と苦笑した。 「そういえば、あなたは? どうしてあの場所にいたの?」 あとの事件のせいですっかり忘れていたが、あの晩はユゥリートも寮を抜け出して、ひとり教会の中を歩いていたはずだ。そもそも、あの場所にたどりついたのだってもとはユゥリートを追ってのことである。 「……ああ、見てたの。単なる散歩。考え事をしながら歩くのは私の癖なんだ。それでときどき思いもかけない場所に出る」 別段表情を変えずにユゥリートは言った。何か引っかかるものがあってルノは眉をひそめたが、目の前の青年は嘘をついているといった風でもない。じゃあ、あの晩は? ただ、偶然散歩をしていた、それだけ……? 「聖音鳥といえば、姫君。近頃、リィンゼント通りを賑わせているリシュテンの聖女の噂はご存知かな?」 ルノの思考を遮るようにユゥリートは別の話題を持ち出す。胸のうちにわずかな反発が沸いたが、十分にルノの興味を引くその切り口につい反応をしてしまった。 「リシュテンの聖女の?」 「そう。『あなたはシュロ=リシュテンじゃない。私こそが本物のシュロ=リシュテンよ』そう言って、聖女と教皇に胸の傷を見せたらしい。どこまで脚色が入っているのかはわからないけれど、リシュテンの聖女を騙る娘がリィンゼント通りの芝居小屋で人気を博しているのは本当だよ。胸の傷痕を見せてね」 「くっだらない」 ルノが冷めた目で吐き捨てると、ユゥリートは漆黒の眸に捉えどころのない微笑を浮かべてカップの中身を啜った。「そうだね、とても、くだらない。けれどね姫君――」ふと漆黒の瞳孔が細まり、凪いだ静寂が訪れる。知らずルノはユゥリートを見つめた。 「今代のシュロ=リシュテン。彼女が何代目だったか、覚えている?」 「ええと……五百……六十八、だったかしら」 「そうだね。五百六十八人目の乙女。そしてユグド王国は今年で建国何年目?」 「千年目よ」 答えて、はっとなる。 これは。これはあまりに――…… 「気付かれたかな? つまり、リシュテンの聖女は平均して一年強、二年にも満たない期間で次々代替わりをしているということになる。それゆえ聖女を輩出するリシュテン家は40にも及ぶ分家を持つはめになった。なのに、それが今代に限っては二十年目の大台だっていうんだから、噂が立つのもわかるよ。今代の聖女は長すぎる。あるいは先代までが短すぎるといったほうがふさわしいのかもしれないけどね」 滔々と澱みなくそこまで語って、ユゥリートは一呼吸置いた。 「今代の聖女シュロ=リシュテンは真か偽か」、黒眸がさめざめと狩人の色を帯びる。 「これはなかなかに面白い命題だと私は思ってるんだ。――きみならどう考えるかな?」 そのとき、時を示す教会の鐘が五度鳴った。五時。六時には城に戻ってくるよう出がけにカメリオがきつく言っていたのを思い出す。 「ユゥリート。ごめんなさい、話の途中だけど、私もう帰らなくちゃ」 「ああ、構わない。姫君を引き止めて悪かったね。従者殿も」 軽く頭を下げるユゥリートに、「いえ」と青年は卒なく顎を引いて、ソードを持ち上げる。またお話させてね、と約束だけを取り付け、ルノはきびすを返した。回廊を足早に歩き、角を曲がり、門をくぐろうとして、それから。ルノは、唐突に足を止める。 「……イジュ、少しそこで待ってて頂戴」 過ぎ去ろうと、思ったのに。本当にそう思っていたのに、ルノは最後の最後で誘惑に勝てなかった。イジュを門の前で待たせておくと、回廊を引き返して天楼図書館のある棟をのぼり、扉を開く。西日の射す部屋に、学生の姿は少ない。一瞥だけをして、ルノは迷わず中二階へ続く梯子に足をかけた。窓が開けっ放しになっていたからだろう、オリーヴの葉のにおいが濃い風がふわっと頬を撫ぜた。ルノは目を上げる。そこには、誰もいなかった。誰かがいた気配もなかった。 「……別に、探していたわけじゃないわ」 つるりとした机の表面をなぞり、誰ともなしに呟く。 よもや会いたいとでも思ったのだろうか、自分は。いいえ。いいえ、とルノは窓硝子に映る自分へ向けてきっぱりと首を振る。会いたくなど、なかった! あんな男二度と御免だわ! 苛立ち紛れに椅子足を蹴りつけると、ルノは毅然と部屋に背を向ける。 |