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06




「そんな格好ですと、お風邪を召されますよ」

 戻ってきたルノの肩に自分の上着を着せ掛けて、イジュは教会の門をくぐる。夏であるとはいえ、シフトドレスの開いた襟ぐりに宵口の風は冷たい。ありがたく上着はもらっておくことにして、深襟をかきあわせたルノに、「何を探されていたんですか」とイジュが訊いた。シャルロ=カラマイの名前を持ち出すことをルノはひどく厭う。このときもそうで、ルノはつんと顔を背けて「何の話よ」と知らぬ存ぜぬを通そうとした。

「さっき、天楼図書館に戻られていたでしょう」
「……本を、探していたのよ」
「何も持たれておりませんが?」
「み、見つからなかったの、よ」

 ついしどろもどろな受け答えになってしまって、ルノは胸中で舌打ちを打つ。下手な嘘ならつくのではなかった。教会に潜入したとき同室だった神学生がいた、彼がどうしているのか少し気になった、ただそう説明すれば事足りる話だったではないか。案の定、こちらをうかがう青年の目から疑念の色は消えない。さりとて、今さら打ち明けることもできず、ルノは思いついた本の題名タイトルをふたつみっつ上げ、「国一の蔵書を誇る天楼図書館も案外なのね」と結んだ。

 教会の敷地を出て、街路樹の植えられた巡礼街道を王宮に向けて歩く。まだ若い緑の実をいくつもつけたオリーヴは近づくとむせかえるような葉のにおいがする。道幅の広い巡礼街道には、巡礼者向けの露天がいくつも並び、夕暮れが近いのに未だに立ち寄る旅人たちで活気に満ちているようだった。建国千年目を迎える今年はことのほか王都に訪れる巡礼者が多い。街道はひとで埋まり、せっかちなルノは馬車などの乗り物を使うことを嫌う。立ち往生して、動けなくなることも多いからだ。
 巡礼街道は王都のさまざまな小道と繋がっている。ちょうどリィンゼント通りと交差するあたりに差し掛かったとき、前方から甲高い歓声が上がり、ルノは足を止めた。オリーヴの青い木々の下にしつらえられたのは、麻布や幌で作った掘っ立て小屋だ。周りに群がるひとだかりのせいで、小柄なルノには何をやっているかまでは見通せなかったけれど、彼らは時折歓声をあげたり、口笛を吹いたりと大盛況だ。持ち前の好奇心がうずいた。ルノさま、とこちらの意図を察知してたしなめようとしたイジュの腕を引っ張って、ルノはひとびとの中に頭を突っ込む。

「あの子はシュロ=リシュテンじゃない。アタシこそが本物のシュロ=リシュテンよ!」

 少女の声がリィンゼント通りに高らかに響く。聞き覚えのある台詞フレーズにルノは眉をひそめた。ひとをかき分け、ねじこむように身体と身体の間から顔を出す。
 中央に栗毛の少女が、ひとりいた。歳はルノとそう変わらないのではなかろうか。まだあどけなさの残る顔立ちをした娘は、豊満な乳房を上衣から差し出し、「これこそがその証」、と艶やかな口元を歪めて嗤う。ロザリオの数珠の下にある白い肌が残照を受けて滑らかに光り、背徳的な色香がくゆった。男たちが歓声を上げ、女たちが野次を飛ばす。少女はしたたかに嗤い、三本の爪痕のついた乳房をこれみよがしに掲げた。そのときの、伏せた少女の目の薄暗さ。
 何とはたとえられぬ異様な空気を感じ取って、ルノは一歩あとずさる。急に不安が押し寄せてきて無意識のうちに従者の腕を引っ張ろうとするが、いつの間にかつかんでいた手がほどけていたことに気付いた。ひとにもまれているうちに小柄なルノだけが中に入り込んでいたらしい。その間にも、集まったひとびとの興奮は高まるばかりで、しまいには頭上を銅貨が飛び交い始めた。何が起きているのか。何が起ころうとしているのか。いじゅ、とルノは迷子になってしまった幼子のような声で青年を呼んだ。所在ない身体をどんと押されて、バランスを崩しそうになる。それを背後から伸びた手が抱きとめた。目を瞬かせたルノを引き寄せて、「どうしてあなたはすぐそう無茶をなさるんですか」とイジュは疲れた風に呟く。青年が気のない視線を向けた先で、『リシュテンの聖女』が乳房を仕舞い、その裸足の足元では投げられた数多の銅貨が光る。





 六時十一分。月白宮に戻ったルノに、カメリオがぽつりと呟く。
 先日の教会の件以来、この侍従長はことのほか門限に厳しい。ルノは渋面を作り、次は気をつけるわ、と力なく返した。スゥラ王は視察に出てしまったので、兄とふたりきりで言葉少なに晩餐をとる。イライアが気を利かせてラヴェンダーの香油を垂らしたバスタブに身体を沈ませ、よく温まってから外に出る。
 近頃、どうにも身体がむくみがちで重い。暑気にあてられたのかしら、と考えつつ、鈍く痛むこめかみを押す。自室に戻ると、天蓋つきの柔らかなベッドに身を横たえ目を瞑った。日課の読書も今日はする気が起きなかった。――あなたはシュロ=リシュテンじゃない、アタシこそが本物のシュロ=リシュテンよ! 乳房を掲げる小柄な少女の姿とともに、甲高い歓声がきりきりと頭の中を呼応する。
 こんこん、と控えめなノックがしたのは、寝付けないルノが何度目かの寝返りを打っているさなかだった。

「ルノさま。もうおやすみですか」

 問う声にううんと返事とも呻きともつかぬ声を上げると、きぃ、と微かに扉が開く気配があり、長身の影が中に滑り込んだ。横たわったルノの身体にリンネルのシーツをかけ、慣れた風に手元の明かりを落とす。ひそまった足音がして、それはたしたしと扉のほうへと離れていく。けれど、少し行ったところでまた引き返す気配があった。ベッドの端に柔らかなひとの重みがかかる。ルノがうっすら眸を開くと、イジュはベッドの隅っこに軽く腰かけていて、大きな手のひらでルノの額にかかった前髪を梳いた。

「シュロのことが気にかかるんですか、ルノさま」

 イジュの声には時折深海のような静かな響きがある。
 手のひらにいざなわれたまどろみの中でルノは「そうよ」と答えた。

「心配よ。だってあの子、すごく寂しそうだったのだもの……」
「さみしそう?」
「ええ。まるで拾ったときのお前みたいだった」
「……そうですか」
「貧血はもう本当に大丈夫なの?」

 別のことを思い出して尋ねると、一瞬答えあぐねるかのような間があり、「……実は」とイジュは息を吐いた。

「私、誰にも言えなかったんですが本当は大病を患っているんです」
「嘘よ」

 湿っぽく打ち明けられた言葉をルノは一蹴する。「嘘よ。お前が私に隠し事なんてできるわけがない」、そうふてぶてしく断じると、青年は思ったとおりくすりと微笑んだ。前髪を梳いていた指先が離れて、シーツに沈む。ふ、と微かな吐息が頬をかすめた。睫毛を震わせた眸に蒼い月光を背負った影が落ち、額に唇を押し当てられる。ひんやりとした冷たい唇だった。眸を上げると、肩から滑り落ちるヘイズルの髪の残像が夜の帳のごとく視界を覆った。

「ええ、嘘ですルノさま。あなたに隠し事なんて、ひとつもありませんよ」

 すぐ耳元で聞こえた男の声は甘い微笑で彩られていたのだけど。細められた翠の眸は今にも泣き出しそうにも見えて、わけもなく悲しくなった。困ってしまって、「どうしてそんな顔をするのよ」とルノは男の柔らかなヘイズルの髪をいつものようにいじりながらなじるように呟くしかなかった。





 ――翌朝。ひどい頭痛に駆られながら目を覚ましたルノは、ベッドのシーツを汚す鮮血を見つける。経血であった。


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